「しない善よりする偽善」は正しいのか?

人間は基本的に自分のことだけを気にしている。
自分のことが嫌い、という人は腐るほどいるが、自分に全く興味がないという人には会ったことがない。
自分のことを好きだの嫌いだの自覚している時点で、自分に興味津々もいいところなのである。

「〜のことが好きな自分が好きなんでしょ」
と、揶揄する言葉をよく耳にするが、そんなことは当たり前である。
そもそも、対象物のことを好きだという気持ちに自らの存在が全く介入しないことはありえない。
好きという感情を発生させているのは自分自身であるし、その好きなものを観測し、快感を得ているのも自分自身だ。つまり、自分が良い気持ちになっている時間が好きなのであり、対象物の存在そのものを愛しているわけではない。 

自己犠牲を払ってまで、相手を助けたいと言う気持ちは、本物の愛なのではないか。という意見がある。

これについても、本当にそうかは疑問である。
自己犠牲を払ってまで助けたい相手が親しい相手の場合、自分も相手にとって大切な人である場合が多い。その場合における自己犠牲は、相手の中に悲しみを生む結果になる。もし、悲しみが生まれなかったとしたら(相手が自分を大切ではない場合)相手は自己犠牲を払ってまで助けてくれた相手に何とも思わない自分に自己嫌悪を覚えることになるだろう。いずれにせよ、自己犠牲はエゴでしかない。

自己犠牲は実に恩着せがましく、実際の生活の中では、返報性の原理という厄介なトリガーを、私たちの中に植え付け、意思決定を左右する。

返報性の原理とは、相手に何かをしてもらったらそれが嫌いな相手からであっても、望んでいないことだとしても、お返しをしなければならないという義務感が生まれる人間心理のことだ。

社会的な動物である我々人間の脳は、この心理を重要視しすぎる。上記の通り「嫌いな相手から」「望んでいないこと」と本来自分にとって何らプラスになっていないことに対しても、お返しという義務を負ってしまうのだ。

義務は、多ければ多いほど人生を不自由にする。
愛のない打算的な奉仕は、あまり賢い行為と呼べないのではないだろうか。

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