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生きてるだけでは生きていけない

「なんにもできなかった」
そう思って眠りにつく日がある。
学校に行く、
アルバイトに行く、
就職活動をする、
ご飯を食べる、
お風呂に入る、
部屋の掃除をする、
洗濯、食器洗い、ゴミ出し、買い物。
「なんにも」は、
ほんとうに「なんにも」ではない。
「生きてるだけでいいよ」なんてとんでもない、生きてるだけでは生きていけないじゃない、そういう愚痴をワーッと書いた記事です。


生きてるだけでお腹は空くし、
お腹空かなくて食べなかったら不健康で、
食べても運動量足りなかったら太ったと言われる。
お腹が空く、
ご飯食べるかと勇気を出す、
冷蔵庫を開けるとなにもない。
スーパーまで徒歩15分、
たった15分が恐ろしく遠い。
だって今、スーパーに行ける格好じゃないもん。メガネ、髪ボサボサ、パジャマ。
髪だけ整えて、ダウンを着て、
誰にも会わないことを願って家を出る。
自炊なんてとてもじゃないけどできない。
まずなに食べればいいの?
なに買えばいいの??わからない。
とりあえずレンチンで、
最悪そのままでも食べられそうなものをかごに入れる。
重い荷物を抱えて家に帰ってくる。
レンチンしたご飯をラップのまま食べる。
なんなら箸は一日使い回す。
シンクに洗い物が溜まるのってなんで?
気づいたら増えてる、
ヨーグルトを箸で食べる羽目になる。
机に食べもの置いて、
椅子に座って食べる、これも難しい。
床にコップ置いて、
マットレスに座って、
イオンの冷凍弁当を食べる。
ヨーグルトぐらいなら寝たまま食べる。
仕方ないから洗い物するか、
と3日に一度くらいは覚悟が決まる。
グローブをつけるのもめんどくさい、
冷たい冷たいと思いながら素手で洗う。
冬はお皿さえ乾くのが遅いような気がする。


生きてるだけで部屋が汚れる、
自分自身も汚れていく。
床にコップ置きっぱなしで、
黒い長い髪の毛は床面積を埋めていく。
年中換毛期だよね、たぶん。
気づけば床と机の上は物がいっぱいになる。
いつ洗ったっけ?みたいな布巾とか、
使い回してる途中のお箸とか、
いつか目を通すぞと思ってる書類。
それはまだいいとして、
なんでお風呂と歯磨きは現代化しないわけ?
浴槽を洗って、
お湯を貯めて、
全裸になって、
顔と髪と体をそれぞれ違う洗剤で洗って、
いちいち水で流して、
自分で濡らしたのに拭くし乾かすんだよ。
もう原始的すぎない?
古代じゃない??
ブラシに洗剤つけて歯こするのも、
令和にすることじゃなくない?
なんでデフォルトで毎日あるの??
できるわけないじゃんね、
無理無理。
歯磨きは一日一回できたら良い、
お風呂は二日に一回入ってるよ、
一応ね。
一日入らないぐらい誤差なんだけど、
二日経つと頭が油っぽくなる、
あと肌が荒れてくる。
シャワーのが楽じゃんって言われるけど、
この極寒の大阪で、
シャワー浴びたら凍えちゃう。
頭洗ってる間震える。


生きてるだけで金がかかる。
実家暮らしのときは何も思わなかったけど、一人暮らしになって実感した。
働かないと生きていけない。
食費、水道代、光熱費、通信費、
家賃、年金、医療費。
シャンプーとボディーソープはなぜか同じ時期に切れるし、ハンドソープもすぐなくなる。
生理用品とトイレットペーパー、
箱ティッシュも、結構高い。
昔は、節水すればするほど水道代は安くなると思っていた。
基本料金という壁があると知った。
毎日風呂入っても、シャワーでも、
ずっと基本料金、月1800円ぐらい。
綺麗な水は貴重だから大事にしよう、
その気持ちだけでせっせと節水している。
今は大学生という立ち位置で、
ほとんどの税は納めてない。
きっと母と父の稼ぎから引かれている。
日雇いバイトのときの数百円すら、
引かれるのがうっとうしいのに、
社会人になったら何万円と引かれる。
年金も家賃も、
自分で払わなくちゃいけない。


税金や年金というものは無縁だけど、
今は学生という職業である。
もちろん大学に通って、
授業受けて、課題を出して、
テストを受けて単位を取る。
それなりに理不尽なことはあるし、
それなりに人間関係もめんどくさい。
大学生が終われば社会人になる、
当然就職活動をする。
大学1年生からボランティアと、
学校インターンという名のボランティアをして、
3年生からは民間企業のインターンシップ。
「学生時代に力を入れたことは?」
学業に決まってるじゃないか、
何を言ってるんだ。
なんてね、質問をそのまま受け取ってはいけない。
学業はもちろん、
卒業が見込める単位を取得して、
それなりのGPAがあることを前提として、
他になにをしたかを聞かれている。
こういう、
就活の当たり前も自分で調べる。
知らなかったら内定出ませんさようなら、
全部自己責任。
リクナビとマイナビに登録して、
毎日山ほどメール来るし、
覚えたばっかりの敬語で返信する。
キャリアセンターで面接練習してもらうのも、まず使用許可取るために担任の依頼が必要。
どういうこと?就職活動するのに?
担任もよくわかってない、
連れていって、キャリアセンターの人もよくわかってない。
うちは私立文系で、
比較的単位は取りやすいし、
履修登録も形だけみたいなもので、
9.5割はみんな一緒。
普通に授業出て、
普通にテスト勉強すれば卒業できる。
その普通が、普通にしんどい。
病気になったのは高校生のときだから、
ある意味慣れている。
もし本当に通えなくなったら、
合理的配慮というものがある。
授業動画を送ってもらうとか、
追加の課題をするとかできるのかもしれない。
ただ、
この世界はそれほど優しくない。
そりゃそう、
元気な人だって厳しい世界を生きてる。
元気じゃない人に優しくする余裕などない。
発病してから4年で、
やっと病気をわかってきたな、と
ちょっとずつ理解してきている。
わかってきたな、と思っているけど、
きっとまだわかってないこともある。
「うつ病」
この言葉を知っていたのか知らなかったのか、それすら分からない。
病気じゃなかった自分が、
どんな性格でどんな日常を見ていたのか、私には分からない。
よく寝てよく食べて、
これといった趣味もなく、
部活をがんばって、
勉強も死ぬほどがんばって、
家事もやってた、
それが普通だった。
病気になる前の自分を思い出すと、
とんでもなく気力と体力があったように思えてくる、おそらく美化された過去。
いつの間にか寝られなくなっていて、
吐きそうになりながら通学していて、
気づいたときには教室にいることが苦しかった。
学校も部活も休まない人間が、
「不登校」「サボり」になった。
もし病気になってなかったら、生きてるだけでは生きていけない、なんて考えることはなかったと思う。
精神疾患って何?怖いって思ってただろうし、バイトを当欠する人のことを迷惑な奴としか思えなかったはず。
精神疾患への理解が深まった、
苦しい人を傷つける言葉を言わなくなった、
良かったことなんてこれぐらい。
自分が言われて苦しかったから、他人に言わない、理解されないと知ったから、少しでも知ろうとしただけ。

病気になる前の「普通」「当たり前の日常」は、もう二度と取り戻せないものになったのかもしれない。
電車に乗れない、エレベーターが怖い、人混みで苦しくなる、教室に居るだけで息ができなくなる、学校に行けない、アルバイトに行けない、朝起き上がれない、ご飯を美味しいと思えない、お風呂に入れない、歯磨きができない。
できなくなることがいっぱいあって、
できるようになって、
また、できなくなって、
その繰り返し。
進んでは戻っての繰り返しをしてるうちに、周りはどんどん前に進んでいるように見えて、焦って、無理矢理進もうとしたって、限界が来たらスタートに戻る。

なんもできないことが普通になった。
なんも、ではないし、
普通、ってなんだろうね。
なにもできなかった一日は、
きっとなにかできた一日で、
私が当たり前にやってることは、
ある人から見たら当たり前じゃない、かもしれない。





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ここからは暗すぎるかもしれない、私がnoteのアカウントを消して、人生を辞めようとしたときの記録。

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なにもできない、とは言いつつ色々やってる毎日が続く。今考えれば異常なほどに、元気だった。
一週間、ずっと休みがなかった。
就職活動の影響で岡山県、兵庫県、大阪府を12月から2月で3往復していた。
第一志望にしてもいいかなと思っていた企業の書類選考に通過して、筆記試験も通った。慌ててキャリアセンターの利用許可を取って、面接練習をしてもらった。
それだけでは足りないだろうと思って、友だちにも面接練習に付き合ってもらった。
結果、一次面接で落ちた。敗因は分かっていたし、付け焼き刃では勝負にならないのだと知った。
岡山と大阪を往復するだけでお金がかかる。もちろん新幹線は使わないで、在来線の片道2時間半。朝5:30起きなんて慣れたもので、なんとも思わなかった。いつもは低血圧で起き上がれないくせに、余裕で起きられた。
面接が入るから公文のバイトに行けないことが増えて、交通費も稼がないといけないのに、収入が減った。
代わりに試験監督のバイトを増やした。面接行って、実家に帰って、大阪に戻って、公文のバイトして、試験監督して、また実家に帰って岡山行って、みたいな生活だった。
出稼ぎ労働者になった気分だった。
疲れているはずなのに、寝られなくなった。寝なくても平気になった。
だんだん部屋が汚れ始めて、洗濯物も溜まるようになった。
ご飯が美味しいのか分からなくなって、お風呂に入らずに大学に行くことが増えてきて、ああ鬱の期間が来たのかなと思った。
一ヶ月に一回ぐらいは、鬱の期間がある。
大学のカウンセリングでそれが分かったから、今回も短くて3日、長くて1週間耐えたら元に戻れるだろう。


もう慣れているから大丈夫、耐えられる。
そんな考えは浅はかだった。
「死にたい」
この気持ちは本音ではない、
そんなことは分かっている。
うつ病は脳の病気だから、
この気持ちは脳のバグ。
死にたいはずがない、だってこれまで生きてきたもの。
4年もこの気持ちと戦ってきて、負けなかったんだから、私は生きたいに決まってる。
対処法だって身につけてきた。頓服飲んで大人しくするとか、寝るとか、どうしてもダメなら心理士さんにメールする。

一日が終わろうとして、19:00ぐらいだったかな。
1人で耐えられないと思った。大学のカウンセリングルームにメールをした。
心理士さんが見るのかと思ったら、大学の先生から電話がかかってきた。喋れる状態ではなかったけど出た。「今は話せないぐらいしんどい?でも電話繋がってた方がいいでしょ」と言ってくれて、あまりにも理解力高すぎて面白くなってきた。しばらく先生が作業してる音を聞きながら黙って座ってて、電車に乗るというので切った。

どれくらい時間が経ったか、今度は心理士さんからメールが来た。ご飯食べた?とか、部屋は暖かくしてる?とか話して「今日はずっとどうやったら確実に死ねるか考えてて、落ち着くためにひたすら家事を片付けていた」と話した。心理士さんはこういうメールをしても、動じないし、下手に触れてこない。あとはぼんやりとしか覚えてないけど、たぶん頓服を飲み過ぎた。薬飲みすぎたら余計に不安定になると知ってるのに、効かないことに不安になると飲み過ぎてしまう。

「しんどいときの対処が上手くなったよね」と言われて、なぜか、ほんとになぜかわからないけど、引き金になってしまった。成長したよねと言われて、成長したと自分でも思うけど、結局4年間変わってないなと思った。頼る人が変わっただけで、学校やアルバイトを休んで迷惑をかけてしまうことも、死にたいなんて言葉をこぼしてしまうことも、変わらない。変わりたい、変わりたいと必死でがんばっても、その努力は誰にも見えないし、結果変われないのだから意味がない。こんなはずじゃなかった。病気なんて、一年ぐらいで治せると思っていた。引きずっている間に、高校2年生は大学3年生になった。あと何年、この苦しみに耐えなきゃいけないんだろう。死にたいなんて言いたくないのに、こんな気持ちは本音じゃないとわかってるのに。あと何年、人生を無駄に生きればいいの。

もういいや。
限界だ。

気づいたときにはタオルをクローゼットに結びつけて、首を吊っていた。目の前が白くなった。でもここで過ちに気づいた。私は心理士さんとメールを続けている途中だった。この人は違和感に気づく人だ。メールの文面だけでも私が何をしようとしているか気づくかもしれない、そしたらなんとしてでも大学の先生と連絡を取って、親に連絡をするだろう。そんなことをしたら、通報されて、発見が早くなってしまうかもしれない。生き残ってしまうのが怖い。死にたくても死ねない体になって生き続けるなんて耐えられない。

死ぬのをやめた。諦めて布団に入ってスマホを見ると、やはり心理士さんからメールが来ていた。「返信がないけど、今何してる?」と。ぞっとした。本当に勘の良い人というか、違和感に気づく人というか。メールの文面だけでよく分かったものだ。

落ち着くまでにしばらく時間がかかったけど、その間ずっと心理士さんはメールのやりとりを続けてくれていた。正直この時のことはたいして覚えてない。メールがまだ残っていたから、メールを読んで記憶と結びつけてこれを書いている。


次の日は金曜日だった。大学とアルバイトがある日。首を吊ったせいで、赤い痕が首に残っていたし、精神状態は最悪だった。3時間ほどしか寝られなかった。休みたかったけど、その日はアルバイトが休めない日だったから、無理矢理行くことにした。頭は働かなくて、とりあえずご飯を胃に入れて、ぼんやりと「今日死ぬんだろうな」と思った。

友だちと会うのも最後かもしれないから、仲の良い子全員に話しかけた。みんなはいつも通りだった。「元気?」って聞かれて「元気!」って返すのが苦しかった。元気なわけない、首の傷はタートルネックで隠して、心の傷は笑顔で隠した。生きるか死ぬかってときなのに、大丈夫なフリをできる自分は演じることに慣れすぎた。またねって大学を出て、いつも通りにアルバイトに行って、ギャン泣きしてる生徒にもニコニコして、家に帰った。死にたい気持ちはずっと消えなかった。お腹空いてないのにご飯を食べて、美味しいかどうか分からなかった。食べ終わって、私は死ぬ準備をした。異常だとは気づいていた。前日に心理士さんを頼ってしまったから、頼れなかった。昨日の今日で連絡してくるなよ、と呆れられるのが怖かった。スマホの中のあらゆる履歴を消して、ほとんどのLINEのトーク履歴も消した。死んだ後に連絡して欲しい人以外は連絡先も消した。noteとTwitterのアカウントも消して、思いつく限りのパスワードは日記の最後に書いた。自分が死んだ後、体液で床を汚さないように布団を敷いた。誰かが見つけるときに鍵を壊さなくて良いように、部屋の鍵はかけなかった。腐敗が進まないように暖房を消して、真っ暗な寒い部屋で、前日と同じように首を吊ろうとした。できなかった。手が震えて、これでもかというほど泣いた。泣きたくても泣けなかったはずが、声をあげて泣いた。あれほど願った死が、そう簡単ではないのかもしれないと思って怖かった。白くなった後の視界はどうなるんだろう、もし次に目が覚めたら、目が覚めてしまったら、どんな世界が広がっているだろう。死後の世界だったらいい。失敗して生き残った場合、救急車の中かもしれないし、どこかの病院かもしれない。自殺未遂した人だから、精神科病院に入院させられるかもしれない。保険適用ではない自殺未遂者の医療費、入院費、一体いくらかかるだろう。およそ間違いなく、これまでの生活には戻れない。大学生を続けられるか、アルバイトを続けられるか、就職できるのか、自由に四肢を動かせるのか。

死ぬのが怖いなんて思わなかった。失敗して自殺未遂をした人として生き続けることが怖かった。私は死ねなかった。踏み台から足を離す、それだけのことができなくて、なにかの事故で足を滑らせないかなとも思ったけれど、どれだけ目を瞑って待っていようと、勇気は出ないままで、私はまた死ぬのをやめた。冷え切った部屋で凍えながら、ひとりで泣いていた。誰にも言わなかった。言えなかった。なにかの間違いで発見が早まるのを恐れて、ひとりで計画して、ひとりで死のうとした。

なにを考えたのか、全てが終わった後に「むりでした」と心理士さんにメールをした。返信は来なかった。来なくて良かったと思った。死のうとしたけど死ねなかった、という意図が伝わってなければいいなと思った。

次のカウンセリングで開口一番言われた。ばっちり意図は伝わっていた。










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