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わたしがもっと綺麗なら

「ただいま」

披露宴の二次会から戻った彼の顔は青白く、一日分とは思えないほどの疲労が滲み出ていた。

おかえり、と声をかけるも、それに続く言葉はない。何か気の利いたことを言わなければならないとわたしは思った。

「どうだった?結婚式は」

「ああ、いい式だったよ」
彼は笑顔でそう言ったが、その顔は引き攣っていた。今朝、ぴかぴかに磨いていった革靴の先には絨毯に擦り付けた跡がいくつもついているし、礼服の肩と背には、まるで雪が降ったかのように大量のふけが落ちている。ストレスを感じると頭を掻く癖が彼にはある。きっと、場の雰囲気に身を捩るような苦痛に耐え、愛想笑いにすら限界を感じたとき、化粧室へ向かう廊下で頭を掻きむしったのだろう。
わたしは、彼を不憫に思った。


◆◇


夜、わたしは彼をセックスに誘った。
しかし、彼は疲れているからと断った。
少し窓を開けて眠ろう、と彼に言って部屋の電気を消した。スプリングがくたびれたセミダブルのベッドに肩を並べて布団を掛ける。わたしは、かつて自分が参列した大学の友人の結婚式をきっかけに、結婚式が苦手なのだと彼に話した。

彼がなにか言いたげだったから、気を遣ってありもしない話をでっちあげたのだが、彼はまるで真実の告白を受けるかのように、いたく真剣にわたしの話を聞いた。

「まるで、負けにいったようだった」
わたしの話を最後まで聞くと、彼はぽつりとそう言った。

◆◇


彼の幼馴染が旅行先のミュンヘンで知り合ったという新郎は、都内で不動産開発を手掛ける実業家の長男で、二十九歳にして役員の席を与えられていた。

ゆえに同じホテルの二次会に集う新郎側の列席者も同じような有名実業家や政治家の二世たちばかりで、話題といえば、パートナーと行ったクルーズ旅行やゴルフ、最近手に入れたスポーツカーの話ばかりだったという。

そして、有名大学を卒業した彼の旧友たちも、そのなかで生き生きと談笑した。彼が愛想笑いで応じていると、「お仕事はなにをされている方ですか?」と総合病院の御曹司であるという新郎の友人に体よく尋ねられた。うっかり彼が本当のことを言うと、彼らは腫れ物に触れたかのように話題を変えた。

彼は、日本銀行で働いている。
それは事実だが、身分は嘱託の施設清掃員だった。

日本人大卒者の平均年収を稼ぐために四苦八苦している自分とは、まるで生きる世界がまるで違ったと彼は話した。


「すごく、嫌な気持ちになった」

愚かな男だとわたしは思った。


◆◇

プライム上場の部品メーカーの代表取締役の家に長男として生まれた彼は、実業家の二世たちとともに同じ話題に花を咲かせるはずだった。しかし、今は390万円の年収で貯金もままならないのは、怠惰な生活に興じて、最低限の努力と呼ばれるものすら怠ったからだ。

中高一貫の私立を卒業したが、彼は受験に失敗した。
高校を卒業すると、父親は予備校の近くに部屋を与えた。浪人生活中、彼は予備校に本科生として通うふりをして、どうしようもない連れたちとパチンコや競馬に明け暮れた。金がなくなると、すぐに実家に金を無心した。参考書や講習には金が要るのだ。彼の両親はすぐに金を工面した。大学は三度も不合格になった。

女を口説くとき、彼は必ず父親の会社の名前を出した。自分は確実に、役員としてビジネスの第一線で活躍する人間だ。MARCH以下の大学など入っても意味がないから、おれはこうして浪人しているのだ。そんな立ち振る舞いが、まともな女や年上に相手に効かないことはわかっていた。だから年下の女ばかりを狙って口説き、そのうち二人を中絶させた。

問題が起きると、彼はいつも母親に電話した。
父親の耳に入ると都合が悪いから、くれぐれも内密にしろと、母親に威圧的に迫った。彼は母親を何度も泣かせた。ある日、彼の愚行を父親が知った。ついに彼は勘当され、仕送りも打ち切られた。
二代目経営者の座は、次男に渡った。

彼は、頭が悪かった。

◆◇

彼もわたしも、今年で三十二歳になる。
まわりはそれなりの立場を得ているだろうし、ひょっとすると自分の経歴を揶揄われるかもしれない。そんなことは、当然彼にも想像がついた。それでも幼馴染の結婚式に行ったのは、彼がほんとうは彼女に恋をしていたからだ。本当に長い間好きだったから、純粋に祝福をしたくて出かけたのかもしれない。しかし、幼稚な彼はうまく立ち回ることができなかった。二次会で、彼の自尊心は木っ端微塵になったはずだ。幼馴染は別の男に取られ、その場にいる男たちは皆自分より収入が高く、立派な立場がある。まるでお前は負け犬だと言われているような惨めな状況を、ずっと好きだった相手に高砂から見下ろされたのだ。

いま、彼は自分を恥じている。
機会を台無しにしてきた自分を。
そして、今ではわたしのような「不細工な女」と旧公団の狭い部屋で暮らし、結婚式を挙げる貯金すらなく、それが貯まる見込みさえもないことを。


わたしは彼を抱きしめ、頬にキスをした。
彼は何も言わずに壁を向き、それ以降口を開くことはなかった。

彼は、きっと眠っていない。
不甲斐ないの自分の人生に涙も出ず、ただ暗い部屋で二世たちのきらきらした表情を脳裏で再生し、唇を嚙んで、耐えているに違いなかった。

◆◇


わたしが彼にプロポーズをしたのは、それからひと月ほど後のことだった。

学生の頃からこつこつ貯めていた貯金と母からの暦年贈与で、わたしの資産は二千万円ほどあった。貯金のことは、彼には言っていない。結婚を申し込もうと決心してから、女の人生には訪れる機会のないはずの”婚約指輪”の購入や、行ったことのないフレンチ・レストランの予約をなんとか済ませた。

指輪を見たとき、彼はきっと寂しそうな顔をするだろう。わたしは覚悟した。女のほうから結婚を申し込まれ、指輪を買ってもらったなど、たとえばモルディブでハネムーンしているような旧友たちには口が裂けても言えるまい。「モテるんだね」と言われても、その場にいる全員がお世辞だと理解して、どこかで酒の肴にされるにちがいない。

傲慢でプライドの高い男だ。
彼にとっては、わたしとの生活よりも、自分の体面のほうが重要であることも、わたしにはわかっていた。

それでも、わたしは彼に結婚を申し込んだ。

◆◇


もっと綺麗だったら。
子どものころから何度もそう思って生きてきた。

思春期になると、くせ毛とにきびがひどくなり、とうとう学校で男子生徒にいじめられた。ひどい言葉ばかり浴びせられた悲惨な中学時代だった。どうして自分をこんな顔に産んだのかと母を詰って、母を泣かせたこともあった。大人になってメイクを覚えると、わざわざひどい言葉を投げつける人はいなくなった。その代わり、わたしは夜が嫌いになった。クレンジングオイルをコットンに落とすとき、わたしの顔をまじまじと見て「ブスだなぁ」と言ったあの男の子の顔がかならず蘇る。

けれど、社会人になって貯金ができても、わたしは美容整形をしなかった。
我ながら古風だが、それはなんとなく両親や先祖を否定することになる気がしたのだ。だから、わたしは自分の醜さを自覚しながらも三十二年間生活してきた。

しかし、その責任は重かった。
わたしは彼と出会うまで処女だったし、男性に憧れても、相手を誘ったり恋愛を発展させることができなかった。彼と出会うまでは。

二年前の夏の終わり、わたしたちはマッチングアプリで出会った。何度かメッセージのやりとりを重ね、上野恩賜公園の入口で待ち合わせをした。彼は白いデニムに紫色の柄物のシャツ、キャメル色の革靴という姿で現れた。男性経験のないわたしでも、女にモテなさそうな人、と思う服装だった。彼は大きな声で、自分のことを饒舌に喋りまくった。自分の過去の恋愛についてのエピソードや、政治や経済の持論、話題は豊富だが、すべての話の結末が曖昧だった。わたしは彼の話を一生懸命聞いた。すると、彼はいかにも自信ありげなふりをしてわたしを誘った。“ふり”というのは、それがつくりものだということが、わたしにはすぐにわかったからだ。

マッチングアプリを使えば、ほぼ無限近く男性と出会えることをわたしは知っていた。アプリを続ければ、どう考えてもこの人よりもいい男性と出会えるだろう。だから、こんな男は捨ててしまってもいいのかもしれない。だが、それでも、わたしは彼の誘いを受け、そのまま鶯谷のラブホテルで彼と一夜を共にした。はじめての夜だった。

翌朝、俺は女には困らない、みたいなことを言って彼は先にホテルから出て行った。しかし、その日の晩にはLINEが来て、会いたい、とわたしに言った。
晩に再び会ったとき、彼の表情は寂しさと自信のなさにでいっぱいだった。わたしは、彼を自分のマンションに誘った。彼はわたしを雑に抱いた。最中、腰に手を回してみると、彼は驚くほど痩せていた。
それからも、彼はわたしに近づいては去るを繰り返し、その内側に隠しきれぬ「愚かさ」をわたしに見せた。わたしは、それが嬉しかった。
人間らしくて、どうしようもなく愛しいと思った。


わたしは、彼を愛している。
彼と身体的なつながりを持ったから、あるいはこれまで交際した相手が彼しかいないから、そんなふうに錯覚しているのではないかと自問したこともある。こういう男は、ひょっとするとわたしを簡単に裏切るかもしれない。

だが、それでもわたしは彼と一緒の生活がほしかった。ただ、愛しい相手ともっと近づきたい。彼が転がり込んできたことで始まった、この恋人ごっこのような暮らしじゃない、本物のつがいとしての生活が。


◆◇


「ありがとう」

そう答えた彼の瞳には、迷いと傲慢と不安が混在している。

俺ほどの男が、こんな女でいいのか?

重い瞼のなかにある弱々しい瞳は、そう言いたげだった。



「結婚、してください」



わたしはもう一度、
彼の鈍い瞳をまっすぐ見てそう言った。


Salubanana's original short short story
2024

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