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私がカウンセラーを志す理由。

私は、少女漫画を描く家系に生まれ育ちました。二世帯住宅でした。

世の中の少女漫画家さんは、決してそんなことはないと思うのですが、
家の中で私は、人を非難する語彙力が一般の人の5〜10倍くらいあるような人たちに囲まれて育ちました。


「家のことは絶対に他人に話すな」
これが、我が家でのルールでした。
下校し、家に帰れば大人たちの愚痴、不平不満、暴言が待っています。
稼ぐ能力を持たない小学生〜中学生の頃の私は、操り人形のように行動し、教科書の下に漫画やゲーム、漫画原稿用紙などを隠しながら、表では自分の意志を持つことを諦めていました。

身内の悪口雑言を、「ほんとにそうだよね」「それは◯◯がひどいね」と同意する私。
相手は理解して貰うための言葉を求めておいておきながら、次の瞬間。

「あんたもおんなじだよね!◯◯にそっくり!」

何も言えず固まる私。反論してこないのが嬉しいのか標的だと思うのか、相手は2時間も3時間も暴言を吐き続けました。   


世間体を重んじていたため、外側では不自由のない生活でした。定期的に家族旅行にも行きました。
ですが、私は手先や運動全般が不器用で、重度の手足多汗症。思考能力も定まらず、日常生活もおぼつかないレベルでした。
親には「可愛く産んであげたのは誰のおかげ?」なんて笑われながら、普通の人のフリをして、なんでもないと誤魔化しながら何とか生きていました。


父は、人付き合いが不器用な人でした。
誰かに強い言葉で責められた時に、父はうまく説明することが出来ず、すぐテーブルをひっくり返したり、身内に暴力を振るっていました。

その後、父の浮気が発覚し、調査や証拠集めに私も協力することになり、私が14歳の頃、私の両親は離婚しました。

芝居が好きな私は演劇部に所属していましたが、部活で帰りが遅くなると、母に「こんな時間まで遊んでこれていいねぇ!家の事なんにもしないでねぇ!」と言われ続け、離婚を機に退部しました。

実家を私の父と折半で購入していた漫画家の伯母は、私が高2の頃に出ていきました。

最終的には、二世帯住宅だった一家は離散し、住む場所も関係性も散り散りばらばらとなりました。   


私は圧倒的に、外に向かう力が足りていないと思うようになりました。高校1年の夏、私は近くのスーパーで、アルバイトを始めました。

それから数年後のある夏の日、私が帰宅して冷凍庫を開けると、アイスにそれぞれ、母と弟の名前が書いてありました。
私の名前はありませんでした。 

その頃には、私は自分の家族を客観的に、遠いところから見るようになっていました。
一度距離を置いたら、なにか理解できることがあるかもしれない。

私は、19歳で芸能活動を始め、身一つで家を出ました。

20歳になり、レストランのホールスタッフやスーパーのレジの仕事など、色々な仕事を掛け持ちするようになり、私の性格も明るくなっていきました。 


私の幼少期は、楽しい思い出も沢山あります。
しかし決して居心地の良いものではなかった実家を出て、色々な人と関わって、社会ってこんなに学びがあって、とても楽しいものだったんだ、と考えられるようになりました。

だんだんと、私は幼少期や学生時代に習い事や学校で孤立していた自分というものを、忘れてしまうようになりました。


ある日、私は昔、本当は自閉症の類だったのではないか?と疑って、本屋で3冊ほど、自閉症やアスペルガー症候群に関する本を購入しました。

その殆ど全てが、幼少期の私の特性に当てはまっていました。

その時点で、自分なりに意識して克服したものもありましたが、人に誤解されやすく、決して生きやすい生活ではありませんでした。
私は思いきって、巻末に記載してあった病院の1つに、「自分がアスペルガーかどうか、調べてもらえないでしょうか」と電話しました。
すると成人であるという理由で断られ、こちらが言い終わる前にガチャッと電話を切られてしまいました。  


人間の行動には、なにか必ず理由があります。
その原因の一端に、私自身が含まれていること。
そのことに気付いたときから、大きな変化が訪れました。


私はこれから、同じ様な境遇にある人たちに何を伝えられるだろう。
本当の意味での「寄り添う」って、何が正解だろう。
そう考えて、私は心理カウンセラーという仕事に、興味を持つようになりました。

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