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道を歩きながら石を積む

節目の年

26歳で、会社を立ち上げてから20年。今日で46歳を迎えた。
つまり、この小さな会社を経営して20年の歳月が流れたことになる。
明日をも知れない創業期。ありとあらゆる経験値が不足していて、不安とトラブルが毎日のように襲い掛かってきたあの頃から。てくてくと歩き続けて、ふと今日20年という歳月が経過して、節目の日を迎えることになった。

ある意味、経営の時間というものを距離に換算したとして、20年という距離をひとつの目標にしていたところはある。20年歩き続けたらどんな景色がみえるんだろうな?と。

今日は朝から、今住んでいる今宿の海を散歩して、松林の間から見える海がとてもまぶしい。とても普通の夏の日だ。とりわけ高揚するわけでもなく、とりわけ何かを思い出して感傷的になるわけでもなく、ごく普通の気分で、そのままヒッポー製パン所に行ってパンをいくつか買って、主人のやっさんと、前回の山笠の話をして戻ってきた。20年が経過したという節目を忘れないように、今の感覚を少し書いておこうと思う。自分を活かして経営を少しずつ始めようとしている人にとって、何らかの道しるべになるといいなと思う。とはいえ、僕なりにやってきただけであって、参考になるかどうかは全くわからない。

山と経営

九州に移ってきたのがちょうど10年前になる。世田谷の家の荷物をとりまとめて東京にありがとうと感謝をして引っ越してきたのがちょうど10年前の今頃。移住という決断をしてからも、今年は10年という節目だ。会社や人生のあらゆる節目が来てしまって、ドラゴンクエストならばエンディングが来て、ファンファーレと共に画面から消えてしまいそうな感覚にもなるが、人生はそうはいかない。

いきなり脱線したが、九州に来てから本格的に登山を始めた。時にはテントを担いで、1日とか2日とか山で過ごす。山に一人でいると、いろんな感情が湧き上がってくる。が、とりわけ、仕事のことを考えることが多かった。細かいことを考えるというよりも山に登ると、経営の道筋が少し整理できるように思えた。登り始めは毎回決まってしんどい。少し登って足が慣れてくる。そこからひたすら登る時間。まわりの景色が変わらずにしんどくなったりもする。時折通り過ぎる人と挨拶をしたり、つらそうだったりたのしそうだったりする他人の表情を見ながら、また自分なりに登っていく。

ひたすら登っていくと、急に見晴らしの良い景色に出会う。いつのまにここまで登ったのだろうと不思議な気持ちになったりする。そこから頂上までは、さらに険しかったりして、最後の体力を振り絞りながら山頂を目指す。
登山初心者の頃はこんな感じだった。そして山頂に到達した時の達成感。それは長く続くわけでもなく、30分ほど山頂にいたらまた、下っていく。

この繰り返しは、まるで経営とシンクロしてくる。そうやって重い荷物を背負いながら、道をひたすら歩き続けている途中で、様々なアイディアや構想や、組織としての在り方を見つけることが多かった。そうして、定期的に山に登っては、経営を整理するという時間を定期的に持つようになったのだった。

いつになったら経営は楽になるのか?

最近創業期の若い経営者から、いつ頃が一番きつかったですか?と聞かれることがある。思い返せば・・やっぱり創業期の4年目くらいまでだろうか?僕の場合には、会社勤めは3年で、26歳で独立したということもあり、ありとあらゆる経験がまだ未成熟のまま荒野に出たということもあるかもしれない。独立することを決めた時、先輩からは失敗するからやめろと言われたのをよく覚えている。勢いで独立して、本当にきつくて、自分が情けなくて、冗談じゃなく、渋谷の路上で泣いたこともある。それでも、その4年間は、悔しさを跳ね返すように、仕事の中で、時にはクライアントから、時には社員から貪欲に学びながら成長していったように思う。5年目くらいからは実績もでき、波の乗り方も少しはわかってくる。それでも成長につれて、社員が増加し、チームのマネジメントの事や、資金面で創業期とはまた別の壁が立ちはだかってくる。仕事の要求や難易度も上がってきて、自分のその時点の力では太刀打ちできない仕事も現れるのもこの頃か。
それでも、負けずに、いや負けても負けても、とにかくやり続けていく。と、少し大きなチャンスが巡ってくる。それをモノにできるかどうかはそこまでに積み上げてきた胆力が試される。10年目の扉が開く。10年を超えると、その頃には経営者としてのスタンスがようやく確立してくる。自分が行きたい方向性や軸が定まってくる。根が強くなる感じだろうか。世の中でこの10年残る企業は数パーセントといわれている。生存競争そのものもさることながら、経営という行為そのもののハードさを物語る数字だと思う。

そこから今度は、その10年で見出した方向に向かって哲学を深めながら新しい挑戦の領域に立ち向かっていく。僕が移住したのはちょうどこの頃だ。思えば、大学の頃から人が働くということの可能性、その人が持つ才能を開花させることにしか興味がなかった。そういう人間が集まって、アイディアをぶつけ合いながら切磋琢磨する現場を、求めてきた。結果的に、今、SALTという場所を運営したり、コワーキングスペースの企画、オペレーションをやっているわけだ。創業当時とは全く違うことをやっているが、実は大きな方向性は変わっていない。

そして、15年が過ぎ、17年が過ぎ・・・20年目を迎えることになる。その途中には、リーマンショックがあり、震災があり、コロナがあり。結局経営は、楽になることはあるのだろうか?僕は無いと思う。登山のように、一瞬の晴れ間、見晴らしを観たあとは、また地獄のような上り坂、雨が降ったり、雪が降ったり。それでも歩き続けなければいけない。365日、24時間、仕事のことを常に考えている経営者という職業は決して楽になるものではないのではないだろうか。

それでも経営を続けるのだろうか?

ではなぜ、経営を続けるのだろうか。社員がいるからとか、借り入れがあるからとか、最初の頃はそう思っていた。だからどんなにきつくても続けなければならないと。もちろんそれはあるけれども、だけどそれも10年を超えてくると少し意味合いが変わってくる。自分の人生そのものが会社とシンクロしてくる。もはや自分と切り離せないものになっていく。いつ辞めよう?楽になりたいな、しばらく休みたいなと思いながらも、結局僕らのような人種は経営が好きでたまらないのだ。自分の人生を反映しながら、リソースも何もない場所から、自分たちのアイディアと行動で、景色が変わるその瞬間を見続けていたいのだろうと思う。

重い荷物をからって、時には地面に手をついてでも、また起き上がって歩いていくことが好きなのだ。

道を歩きながら石を積むようなもの

ところで、結局20年経営して、経営や仕事とは何なのか?ということを考える。最初は小さなところから、大きな仕事を得て、大きな資金を得て、大きなインパクトを残すことを望む人もいるだろう。そう願っていた時期もあった。が、僕はどうやらそれではないということは分かった。

あなたは、登山の途中に、ところどころで、石が積まれているのを見たことがあるだろうか?誰が積んだのかわからない、何の為に積んだのかわからない。

結局は、あの、道の途中の石をひとつ。積むようなものなんじゃないかなと思うのだ。

だれが積み始めたのかはわからない。けれども、道すがらそこを通る人がいつの間にか、そこに石を積んでいく。そうやっていつの間にか、自然の風景の中に、石積みが出来上がって、登山客を励ましたり、そこに登った人生の痕跡を刻むように人が石をまた積み上げていく。その石積み自体に意味があるかどうかはわからない。

この20年で、何が成し遂げられたのか?というと、大したことはやれていない。巨大な利益を上げたわけでもない、上場をしたわけでもない、何か僕の仕事で世の中が大きく変わったこともない。それでも、できるだけ誰も通ったことのない道を探しながら、ここぞという場所に石を積む。そこにまた誰かが石を積む。そうやって、石を、20年の道の途中にいくつかおいてきたのだという感覚はある。

道の途中に石を置いてきた。そしてこれからも、道の途中に、石をそっと置いていくに違いない。

15年前の自分が今の自分を見てどう思いますか?

僕の親友で、不思議でとてもユニークな会社を経営している、fantasiaの代表の毛利さんに、最近こう言われた。僕は、定期的に、毛利さんのところに顔を出す。山に登りに行くことと同じようなルーティンや感覚で、彼に会いに行く。この日は、いかに今の自分の経営がダメかを彼にさらけ出しに行ったように思う。しかし彼はこう言った。

「須賀さんは、15年前の自分が今の須賀さんを見てどう思うと思いますか?」

その時、恥ずかしげもなく、自分はこう思った。あの頃に比べたら、やりたいことを全部やっていると思う。単純にそう思った。毛利さんという親友の愛情あるまなざしが有難ないなと思った。こうやって、20年の間、そっと手を差し伸べてくれる人々の顔が浮かんだ。

そして、20年生き延びる知恵を授けてくれた親に、この会社で一緒に働いてきた仲間に、仕事という成長機会を与え続けてくれるクライアントに感謝が湧いてきた。そして、同時に自分の弱さに打ちひしがれて帰った。俺はまだまだだ。修業が足りない。

さらにこれから20年かけてどうやって山を下っていくか?

一旦、僕の経営の登山は20年という時間を経て、一区切りだ。今は山頂でカップヌードルを食べている時間だ。まあよくここまで登ったねと思いつつ、アミノ酸たっぷりのカップヌードルを食べながら、つかの間の休憩をしている。

さあ、いよいよ混沌としてきたこの時代に、これから何をしていこうかな。

まずは、10年前にこの地に移ってきた息子が13歳になり、彼とキャンピングカーで日本を再発見しながら、一周をしたいなというのが目下やりたいことである。アラスカに行って、スチールヘッドを釣りたいな。モンゴルで馬に乗って国境の川でサクラマスを釣りたいな。マグロを釣りたいな。仕事は、ぼちぼち歩きながら、また考えていくことだろう。66歳になる次の20年を楽しみながら、また鍛錬して歩いていこうと思う。

今年は、少し個人的にこれまでの経験を活かして別の仕事、まったく領域の異なる仕事を、様々なパートナーとカタチにしていきたいとも思う。いろんな組織づくりのお手伝いもしていきたい。何かお手伝いができることがあれば声をかけてくださいね。

最後に

これまで、20年支えて頂いたスタッフの皆さん、そして多くの機会を与え続けてくださるクライアントの皆様、応援してくださる地域の皆様、家族、両親に心から感謝を伝えたいです。本当に20年間ありがとうございました。

1998年
秋葉原にてPC9800を26万円で購入

1999年
明治大学時代に、路上のアーティストなどの表現者の家に行き、なぜその仕事をしているのかの源泉をインタビューするWEBメディア『The Planet Plan』創刊

2000年
株式会社システムインテグレータ入社
Oracleデータベースを活用したWEBベースのシステム構築や設計手法を学ぶ
2001年
株式会社キノトロープ入社
大規模WEBサイトのプロデュース、構築手法を学ぶ

2002年
合資会社スマートデザインアソシエーション創業(資本金10万円)
代々木上原のボロアパートから出発

2002年 
有限会社スマートデザインアソシエーション(資本金300万円)
デザイナーのパートナーと二人で主にWEBインテグレーションをスタート
代々木上原のデザインマンションに事務所を移し、複数のクリエイターとシェアオフィスを開始

2005年
株式会社スマートデザインアソシエーション(資本金1000万円)
社員12名、渋谷の南平台に事務所を移す

2006年
デザイン家電amadana×docomo×タイクーングラフィックス×テイトウワの、デザインケータイスペシャルサイトをプロデュース。

2007年
社員数25名となり、オフィスを下北沢に移す。
建築家、山崎健太郎氏にオフィスのデザインを依頼。

2010年
南インドコインバトールにエンジニア5名を雇用しオフショア事業所開設
社員数42名定常パートナー約30名

東日本大震災

2012年 
福岡事業所開設、福岡へ移住

2013年
福岡移住計画スタート(special thanks 片岡さん、坂田君、毛利さん、万野さん)

遊休不動産を活用した場の創出事業を開始

2014年
ライズアップケヤスタート
2015年
SALTスタート
2016年
西日本鉄道とHOOD天神スタート
2017年
福岡銀行ダイアゴナルランスタート
2018年
NTT都市開発ビル事業部LIFORK運営スタート
2019年
空き家を活用した民泊運営が全国10拠点になる
2019年
コロナ禍の中様々な取り組みを模索
2021年
古賀市と快生館スタート
2021年
株式会社SALTと社名変更
株式会社アドバンスグループの代表 伴芳夫が出資・取締役就任
資本準備金を含む資本金4700万円に増資

2022年
博多スターレーン跡地に、NSFエンゲージメント社と
mol.t運営スタート予定(8月2日スタート)


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