それってほんとに"自分らしさ"?
去年の12月中旬から、今年の初めにかけて、わたしはstand.fmの音声配信をストップしていました。去年の3月からずっと続けていて、活動を止めたのは初めてでした。
なんで、ストップしたの?
わたしのなにかがそう言ったから!(攻殻機動隊?)
――個人的な事情はさておき、そのサイトの文化に染まりきる自分に嫌気がさした、という側面があります。
最初は良かったのです。でも、どんどん泥臭いことが分かっていき、なんとなくその中に染まり……。
これって、ほんとの"わたし"だっけ?
stand.fmの中の"わたし"が、なんだか気持ち悪くなってしまいました。その集団の中に最適化したわたし……そして、喋りたいことがなくなっていき、半月ほど更新はストップ。
そして、最近、わたしは更新を再開しました。喋りたいことが出てきたの。たくさん。
人のタイプによると思います。集団にいることが苦ではない人、人とのコミュニケーションが好きな人、それが生き甲斐みたいな人は、集団にいた方がいいです。
でも、わたしは真逆で……あまりに密なコミュニケーションは息苦しく、「自分らしさ」が失われていくような感覚。
声を媒体にしているから、すごく、距離が、近いんですね。
わたしは人と距離を取りたい。わたしの"使命"と言ったら、話が変な方向に行くのかもしれないけれど、今のわたしがこの世界で何をするのが最適解なのか、それを突き詰めたところ――。
わたしは、ある程度、人と距離を取って、人間を含めたこの世界の"構造"を見つめたい。
そこに終局したのです。それが「わたしらしさ」、だと。
去年から、「ありのまま」という言葉を大切にしてきました。でも、最近、100分 de 名著でハイデガーを読んで、「ありのままなんてないじゃん」と思ったりもして……。
生まれついた環境、育った環境、それらと人間は切り離せないのですね。「ありのまま」だと思っていたわたしは、この日本の一都市の限られた環境で生まれ育ったバイアスが入っています。
だから、「ありのまま」なんてない。
だから、別の土地の、別の宗教の人と、完全に意思疎通するのは難しいのでしょう。「普通」「常識」「ちゃんとする」っていうのが、全然違うから。
(「普通」「常識」「ちゃんとする」っていうのは、わたしの親が好きな言葉だよ。昭和っぽいね)
だからこそ。自分の内側を見つめると同時に、外側の知識を得たい。この世界のあらましを、歴史を、文学を、経済を、知りたいと思うのです。
それが、包括的な、わたしを含めたこの世界の理解に繋がるから。
100分 de 名著のマルクスの『資本論』を読んで、わたしがどれほど驚き、天地がひっくり返ったことか。わたしは、生まれながらに、資本主義思想に染まりきっていたことを、思い知ったのです。
でもね、きっと、日本に住んでる人、みんなそう。
わたしの中にある概念を、思想を、根本的な「常識」だと思っていたものを、外に出していきたい。
ハイデガーは「ありのままはない」と言いましたが、そこに、人間という生き物の「ありのまま」があるのかもしれない。
単なるその辺の会社員で、学者でもないけれど、わたしはそう思うの。
だから、学ぼう。
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