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"生きること"は目的? 手段?

労働でお金を稼ぎ、そのお金でご飯を買って、生きる。

労働は"生きること"に繋がっている。

そして、労働にたくさんの時間を使うわたしたちは、"生きること"に精一杯だ。


ずっと、なんとなく、"生きること"を目的にしていたような気がする。

"生きること"を安定させるために、多くの時間を労働に費やしてきた。

趣味を仕事にしているわけでもなく、多くの会社員がそうであるように、そこまで強い思いを仕事に抱いているわけではない。

わたしの時間(=命)の多くは、"生きること"のために費やされている。


「まあそうだよね」と言えばそうなんだけど、会社とお金というフィルターがかかって、なんだか……そこがうまくいってない。

自給自足というのかな、自分のご飯を自分の肉体を使って採るのと、会社のデスクワークでお金を介して採るのでは、きっと感覚が違って。

なんだか、もやしのような気分。

家の中にずっといて、オフィス街でもいいんだけど、人工物に囲まれて「なんのためにこんなことしてるんだろう」って。

そういう疑問が浮かぶあたり、わたしはなんだかうまくいってない。


そこで、わたしは、"生きること"を手段にしたい。と思った。

目的にするには、あまりにも肉体を使わなさ過ぎて、本当に「生きてるかわかんなくなる」。

仕事だけに没頭して体調を崩したし、今の生活では感性がどんどん鈍ってきて、本当に「生きてるかわかんなくなる」。

メンタルヘルスが崩れちゃう。

というか、崩れてる。


楽しいことって、なんだろうな。

と考えると、ふと、「今、文字を書いているの楽しいじゃん」となった。

生きてきた経験、人間の知識、今のわたしの感情、感性、全てを突き合わせて、自分なりの法則を考えること。

これが、一番甲斐があったりする。

考えるだけでは考えが溜まる一方なので、情報発信でアウトプットするのは心地よいし、見てくれたり聞いてくれる人がいるんだ。

実際に、コンスタントに、苦労せず、続けられている。


楽しいこと、と聞くと、テレビでコマーシャルされてるやつとか、わたしの世代の女性が好きなこととか、そういうことにフォーカスを当ててしまう。

で、そういうことを「楽しくない」と思う自分の"しあわせ回路"は「死んでる」と思ってた。

もしかしたら、これって間違い……?

外の世界に騙されてきた人生だった。

もしかしたら、わたしの"しあわせ回路"は立派に存在していて、適切なスイッチを入れたら反応できるけど、スイッチを上手に入れられないだけなのかもしれない。

そうしたら、人生を手段にできるほど、わたしはなにかに没頭したり、感動できるのかもしれない。


人生を目的より、手段にしたいよね。

だって、そっちのほうが、絶対にしあわせじゃん。

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