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私にとっての"おせっかい"を改めて考える

最近になって、改めて自分って、おせっかいな人間だなぁと思った

でもさ、一般的に使われる"おせっかい"って、あまり良い印象を受けない

お節介とは
出しゃばって、いらぬ世話をやくこと。
また、そういう人や、そのさま。

goo辞書

そう。
なんか、こちらは頼んでも、お願いもしていないのに、余計なことをしている
っていうのを"お節介"と捉えていたが…

実は"おせっかい"って、仏教の観点から見ると
『節操を堅く守り、世俗に流されないこと』
だそうで、
"慈悲の始まり"と、とらえられているんだよね

《おせっかいの語源とは?》
おせっかいの語源は「切匙・狭匙(せっかい)」とする説が有力です。
切匙・狭匙(せっかい)とはすり鉢やすりこぎの内側についたものを落とす道具のことです。

切匙(狭匙)がすり鉢の溝に入り込むことから、細かいところまで行き届く、他人の内に入り込もうとすることを「おせっかい」と言うようになり、間に挟まることを意味する「介」の字を含んだ「節介」という漢字が当てられるようになったようです。

また仏教の観点から見ると、おせっかいは慈悲の始まりともとらえられています。
慈悲とは苦を取り除き、楽を与えようとする意味です。

私は一般的によく知られている意味と、この仏教の観点から見た意味で、なぜこんなに違うのか、頭では理解するのだけど、なんかずっと腑に落ちていなかった。
けど、最近、改めてこちらの仏教の観点からみた"おせっかい"の意味を読み返していたら、急に腑に落ちた

おせっかい本能こそ慈悲       名取盛雄

お節介は教えられてできるもんじゃない
持って生まれた人間社会の潤滑油で
いわば仏性そのものだ。

でしゃばり、おせっかい、
すぎれば 世の中 ぶちこわす。
そこで報恩、四恩の教えがタガをかける。

大日如来とは、おせっかいの総元締め。
即ち「大慈」とはおせっかいをいう。
行き過ぎをコントロールする智恵を
「大智」という。
人間皆この分身を生まれながらに持つ。

違いは、おせっかいをする人に
『智慧(智恵)が備わっているかどうか』
そこが違うのか…

智慧とは
一切の現象や、現象の背後にある道理を見きわめる心作用を意味する仏教用語

ウィキペディア

知性とも似ているようでまた違う智慧

ちなみに

大智とは
いちだんとすぐれた知恵。
また、それをもつ人。

goo辞書

意味は智慧に近いのかな…

私がずっと違和感に感じていたのは
"行き過ぎたおせっかい"で、
私は、"智慧のあるおせっかい"をやりたかったのか…

『人間皆この分身を生まれながらに持つ』
ということは、自分の中にある智慧を思い出し、育んでいきたいよね

育むためには、まず毎日、自分自身に素直に正直に、自分の欲求を叶えるために行動していくことなんじゃないかと今は思う