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宇宙人とことばと猫と。

珍しく家で映画を観た。

『ARRIVAL』というSF映画だ。何かの番組で取り上げられていて興味がわき、わざわざ探して観た。
——ところでこの映画の日本語題は『メッセージ』だが、韓国語題は『컨택트 コンタクト』だ。原題は「到着」、韓国語版は「接触」、日本語版は「伝言」。この微妙な違いは何なんだろう。

そもそも映画オンチの私は、SF映画はさっぱりわからなくてまず観ようとは思わないのだけど、
この映画を観終わったときには、知らないうちに涙がぽろぽろこぼれていた。

難解なストーリーではあった。もちろん、観るきっかけになった番組での解説がなければ、ほぼ理解できなかったかもしれない。

ストーリーをざっくり言うと、地球の各地にやってきた宇宙生命体に対して、言語学者であるルイーズが接触をはかり、「ことばと文字」を使って意思疎通を試みる物語だ。
あっ、なんだか原題と韓国語題と日本語題を合わせた形の要約になってしまった。

強く心に残ったのは、「時間の概念のひっくり返し」と「ことばとは何か」という問いだった。
(以下、もしかしたら軽くネタバレ入るかも)

宇宙生命体は、地球人のいうところの「文字」を丸で表す。すべてが丸だ。それは事象の捉え方を表してもいる。人間にとっては直線上でとらえているもの、前と後ろ、過去と未来、始まりと終わり。しかし宇宙生命体の彼らにとって過去と未来の境はない。輪を描いて同時に存在する。
そのような文字を通じて彼らのことばを学んだルイーズは、その捉え方・考え方にも感化されていく。ことばによって思考が影響を受けることを誰よりもよく知る言語学者だからこそ、その感受性が高い。そのために、彼女は悲しい運命も引き受けることになる。

観終わってからは、さまざまな思いがさざ波のように打ち寄せて、余韻が残った。
未来と過去の概念も興味深いが、何よりも「ことばって何だろう」という問いにとらわれた。

私たちはほとんどが「ことばの通じないもの」に囲まれて生きている。
同じことばで意思疎通をするなんて、基本的には同じ地域に暮らす人間どうしだけだ。こんなに限られているのに、ことばが唯一の疎通のツールだと信じているところがある。

例えばうちの猫、ホプ。よく、こいつは何を考えているのかなあとか、ことばが通じたらなあと思うことがある。

ところが、最近気が付いたのだが、私たち(ホプと私、またはホプと同居人)はけっこうコミュニケーションが取れている。ホプはいま気分が良い、遊びたがっている、怖がっている、構われたくない。そういうことを彼女はちゃんと一定の方法で伝えるし、私はほぼわかるようになっている。ホプもこちらの意思をある程度察している。猫などと一緒に暮らしている人なら、だれでも自然に経験していることだろう。

それでも「ことばが通じたらなあ」と思うときは、もうちょっと具体的に彼女の意思を知りたいときだ。にゃーんにゃーんとしつこいので近寄るとぴゃっと逃げるとき、「遊んでほしいのはわかったから、どの方法の遊びをご所望なのか言ってくれ」という心境だ。

でも。
考えてみたら人間だって、ことばが通じてもおおざっぱにしか理解できていない。むしろ、ことばどおりには理解せず経験や想像で補填することも多い。「大丈夫」ということばが良い例だ。「大丈夫」と言うとき、人はたいてい、大丈夫でない。その一言にはあらゆる意味合いが含まれるし、受け手は経験的にそのあいまいさの中から近そうな意思を予想して当てはめている。
「言えばわかる」「言わなきゃわからない」と、当たり前のように思っていたけれど、ことばを通さないコミュニケーションとの境は、どこなのだろう。

私たちは、ことばに頼りすぎているのかもしれない。

 

……と、宇宙人から猫まで飛んでしまった。
最近つらつら考えている「ことば論」は、あんまりまとまらないのでここで強制終了。
猫とのコミュニケーションについては、またそのうち書く。

ああ、ちなみに『ARRIVAL』は素晴らしかったのだけれど、
宇宙船があれだけ斬新で美しいフォルムなのに、宇宙生命体がどうみてもテナガダコの姿で、しかも墨みたいなものを噴き出して丸(文字)を描くというのがなんだかあまりにも…慣れ親しんだ宇宙人ぽくて、そこだけはちょっと、なんつうか面白かった。