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2021.5.24 渋沢栄一 死闘の記録

渋沢 vs 三菱 ― 日本の命運をかけた戦い

明治時代、ほとんどの日本人には知らされていない歴史を変えた大喧嘩があります。

それは、渋沢栄一と三菱の戦い。

1878(明治11)年。
日本の命運をかけた歴史に残る死闘が繰り広げられました。

しかし、現代にも残る大企業にとって不都合なことでもあるのか、他ではあまり語られることがありません…
今回は、その歴史を紐解いていこうと思います。

ある日、こんな記事が新聞に載ります…

「実業家、渋沢栄一が株で大損」
「損を取り返そうとするも失敗…」
「渋沢は落胆し、自殺未遂をした」

実は、この記事の内容はデタラメでした。

「なんだ、この新聞は!」
「嘘をつくにも程がある!」
「小賢しいことを…」
渋沢は怒りを隠せません。

事の発端は、ある日の晩酌から始まりました…

1878(明治11)年夏。
東京の向島にある料亭柏屋にて──
三菱の絶頂期にあった岩崎弥太郎(43歳)
実業界で力を伸ばしていた渋沢栄一(38歳)

二人が酒を酌み交わした夜のことでした…
岩崎がおもむろに口を開きます。

岩崎「渋沢さん、今日は日本のこれからの実業界について、遠慮なく話し合いましょう。あんたとこうやって二人で飲み交わすのは初めてですな。2人で組んで、大金持ちになろうじゃありませんか」
渋沢「じっくり話したいところですが…、儲けを独り占めすることには反対です」

岩崎「ほう、これは手厳しい。しかし今、実業界を牽引しているのは、この儂、三菱の岩崎弥太郎だ。三菱の発展がひいては日本の発展ではありませんか?」
渋沢「いえ、富を自分だけのものと思うのは、大きな間違いです。一人では何事も成し遂げられません」

岩崎「わしは一人で三菱をここまで大きくしたんだ!富も責任も、全て一人で請け負うからこそ、人は一生懸命になれるんだ!あんたが言うように、富も責任も皆で分け合ったら、誰も死ぬ気で仕事などせん!」
渋沢「一人では限界があります。あなたが誤ったとき、誰がそれを正すんですか?」

岩崎「知るか!その時は儂も三菱と倒れればいい!」
渋沢「それではいけません。会社は広く社会のものです」

岩崎「…綺麗事じゃ。渋沢さん、何れあんたとは決闘することになるだろう…その時は全力で潰す!」
渋沢「わかりました。その時は私も全力でお相手致しましょう」

それから3年後…

岩崎「いいか、これは戦だ!あいつにだけは負けられん…。貴様ら全員、渋沢に負けたらクビだと思え!」

岩崎の予言通り、明治の産業史に残る海運戦争の火蓋が切られました…

三菱は日本の海運を独占。
客に対して、保険も倉庫も必ず自分たちのものを使わせていました。
また逆らう客には、荷を拒んだり、敢えて遅延するなど嫌がらせも横行したと言われています…

渋沢は三菱に対抗。
第二の帆船会社を設立します。

しかし、三菱の抵抗は早かった…

「三菱が新聞社や出版社に出資している」
そんな噂が立っていたある日…

新聞の見出しに載った記事が…
「実業家、渋沢栄一が株で大損」
「損を取り返そうとするも失敗…」
「渋沢は落胆し、自殺未遂をした」

岩崎が仕掛けた風評記事により、渋沢は次々と協力者を失い、渋沢の帆船会社は、一気に倒産の危機に晒されます…

しかし、渋沢たちは決して諦めません…

血の滲むような覚悟で、荷物の運賃を安くして食い下がります。
一方、三菱社内には、岩崎の無謀さを危惧する声も強くなっていました。

しかし、誰もその方針には逆らえません。
岩崎は、社用便箋を私用で使った幹部を減俸処分…、1円の無駄も許さない緊迫した状況にいました。

果ては乗客の奪い合いから、無銭で乗せた上、景品まで配るようになったという話まで残されています…
その様子は“未曾有の大混乱”(東京日日新聞)と報じられました。

1884(明治17)年10月21日。
三浦半島観音崎沖──
ついに戦いの凄まじさを物語る事件が発生します。
互いに航路を譲らないあまり、とうとう二隻の船が衝突したのです…。
「三菱の船と衝突した?」
「乗組員は無事か?」
「乗組員に被害はありませんでしたが、積荷が一部破損しました」
と、まさに命を懸けた戦いだったのです…

しかし、彼らにはこれほどの犠牲を払ってでも、譲れない信念がありました。

利益を皆で分け合う“合本主義”の渋沢栄一か。
独占主義の岩崎弥太郎か。

日本の未来を賭けた“理念の戦い”でした。

『公利公益に努むるは王道である』

そんな信念を貫く渋沢のもとには、大勢の同志が集まっていました。
渋沢「本日はお集まり頂き有り難うございます。赤字はついに年間百万を超えました。私は…」
大倉「増資をしましょう」
渋沢「え?」
大倉「そうです!増資です!」

大倉喜八郎をはじめ、次々と立ち上がる者の姿がありました。
大倉「しかし、皆さんにはもうかなり無理を言っています。これ以上の負担は…」
渋沢「苦しいのは三菱だって同じはず…。それに、向こうは一人ですが、私たちには大勢の仲間がいます!皆、渋沢さんを信じてここまでついてきたのです。最後まで一緒に戦いましょう!それこそが“会社”でしょう」
渋沢「…私は17年前、パリで“会社”に出会い、魅了されました。それ以来ずっと、この道をまっすぐ突き進んで来ました。そして今日、その道が間違ってなかったことを教えて頂きました。有り難うございます」

そんな折…
戦いは思いもよらぬ形で終息します。

1885(明治18)年2月。
岩崎は静かに息を引き取りました。
享年52歳。
突然の訃報を受け、岩崎の弟が社長の座に就くものの、独裁者亡き後、三菱に戦いを続ける体力も気力も残っていません。
最終的に政府の仲介を受け入れ、両社の合併を了承しました。

こうして誕生したのが「日本郵船」です。

渋沢は、日本郵船の取締役に就任。
欧米の汽船会社との競争を勝ち抜き、日本の貿易拡大に貢献。

その後も金融、交通、商工業…、多岐にわたる分野で活躍。
渋沢なくして、現代日本なし…
そんな言葉が生まれるほど、戦後の焼け野原から高度経済成長を遂げ、日本は世界のトップに躍り出ます。


近代日本を築き上げた渋沢栄一。
明治維新後の動乱期を迎えた日本で、国民のため、日本の未来のため、まさに命を懸けた激闘を繰り広げていました。

日本で明治維新の頃から、日本の産業や経済に偉大なる貢献をした渋沢栄一。
ライバルと戦いながら、日本の経済をどんどん発展させました。
儲けると同時に社会に還元することを重視したのです。
そして、日本郵船は、渋沢が携わった事業のほんの一部に過ぎません。
みずほ銀行、JR東日本、王子製紙、キリンビール、東京ガス、帝国ホテルなど…、哲学、信念を貫いて成し遂げた事業は500あまり…。
その優れた才能は、マネジメントの父と言われる経営学者のピーター・ドラッカーが
「マネジメントの重要性を世界で最初に理解したのが渋沢栄一だった」
と評するほどでした。

「近代日本発展のエンジン」となった日本の“力の源泉”

近代日本発展のエジソンとなった渋沢の商才。
そして、その商才を支えたのは、ブレることのない信念にあったのです…

100年以上も読み継がれる『論語と算盤』に込められた渋沢の信念は、どのようにして育まれたのか?

激動の日本で、世界で、渋沢栄一はどんな体験をし、血肉としてきたのか?幼少期に始まり幕臣、フランス渡航、官僚を経て実業家になるまで…

5,6歳の時から渋沢が夢中になった学問の世界。

18歳のとき、暗殺の危機を救った恩人との出会い。

27歳のとき、パリで目にした新しい経済のカタチと哲学…等々、

そこには、知られざる数々のドラマがあったのです。
しかし、渋沢と岩崎の世紀の戦い明治の産業史を変えるほど火花を散らしたにもかかわらず、何か不都合でもあるのか、三菱の沿革にすら残されていません。

日本の歴史家たちは優れていますが、分からない分野がたくさんあります。
幕末から明治にかけて、隣の清国がイギリスによってアヘンで骨抜きにされていた頃、実は、日本にもアヘンが周りにいっぱいあったのです。
でも、皆無かったことにして明治維新を語ります。

渋沢について誰も触らないのは、妾や愛人の数と作った子供の数。
どんな女性が彼の妾や愛人になったのかです。
そういう肉欲の塊だった渋沢と経済を大発展させた渋沢の話が合わないと思われているのです。
大河ドラマや小説、学術書が語るのは一面ばかり…
そうすると、分かったようなつもりでいるだけで本当のことは分からないか、何かを見てない気分になるのです。
それは、もう1つの面が語られていないからです。

今回、私が記事にした渋沢は、大河ドラマや小説で描かれている一面だけではなく、どちらの面も取り上げた人間“渋沢栄一”の本当の偉大さを浮き上がらせたいと思い書いています。

現代にも生きる渋沢の哲学と信念…

そんな信念を貫いた渋沢が盛り上げた明治日本はその後、高度経済成長で二度目の大発展を遂げます。

しかし、バブルが崩壊してからというもの、あれほど勢いのあった日本人は、あらゆる分野において完全に自信を失い、政府がなけなしの予算を投じるだけで、全く改善の兆しが見えず、長い経済停滞へと突入…
一体、次に何をしたら良いか分からない…もし、今の状態がずっと続くなら、先人たちが血の滲むような努力の末に築き上げ、世界中から尊敬を集める“日本ブランド”は、度重なる不祥事や日本企業の競争力低下によって、どんどん廃れてしまうかもしれません…
なぜ、日本は明治や戦後の活気をなかなか取り戻せないのでしょうか…?
それは、日本を強くしようと生き抜いた先人たちの偉業が、私たちの記憶から消え去りつつあるから…

今の日本が本当に必要なことは、激動の時代を生き抜いた先人たちの生き様を知ること。
その生き様を知ってこそ、真に日本が沈み込んだ現状を突破できます…
今こそ、新一万円札の顔となる渋沢栄一の真実を知るときではないでしょうか。

もし、私たち日本人が、もう一度日本を強くしようと、強い日本精神を持った上で一致団結し、先人の優れた叡智を取り入れたなら、きっと、この国を新たなステージへと押し上げることができるでしょう…

明治日本で、生きるか死ぬかの覚悟で国を飛び出し、貪欲に海外の制度や思想を学んで、欧米の侵略を見事に撥ね付けた先人たち。

さらに、昭和日本でも、敗戦後の焼け野原から高度成長を成し遂げた先人たちがいたように、令和を生きる私たちも、この危機を逆にチャンスへと変え、もう一度、世界で輝く日本ブランドを取り戻すことができるはずです。

先人たちが築いてくれた、世界に誇る「日本人」ブランドを消さないためにも、子供や孫の世代に、誇りを持って生きられる国を残すためにも、今こそ私たち一人ひとりが目醒め、日本の未来に希望を持ってほしいと思います。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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