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2019.8.16 “マッカーサー参謀”と呼ばれた一人の男

写真に写っている男性は日米大戦中、日本陸軍中佐を務めた堀栄三という人物です。

しかし、彼は日本軍の中において‟堀栄三”という名の他に、もう一つの異名を持っていました。

その名は、「マッカーサー参謀」。

あまりにも米軍の上陸日程を当てるため、日本軍内でそう呼ばれていました。

彼は当時、正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測できる希少な人材──つまり情報収集のスペシャリストだったのです。

そんな彼ですが、現在の日本人の多くには知られていない大きな功績を残していました…。

それは、「敵軍戦法早わかり」という小さな冊子を完成させ、軍内に広めたことです。

これの一体何が大きな功績なのか?

その冊子の内容は、米軍の上陸作戦行動を科学的に分析したものでした。

そして、この分析を基にした戦法を伝えたことで、今まで日本陸軍の常套手段であった万歳攻撃をやめさせたのです。

つまり、米軍への水際での突撃や夜間の銃剣突撃は自滅するため行わないようにする。
この戦い方を徹底させたのです。

この戦法はまさに、今までの日本軍の戦い方そのものを180度変えるものでした。

その効果は凄まじく、安易な突撃と玉砕をしなくなったため、兵の損耗を最低限に抑えることに成功。

さらにはその結果、例え8倍以上の兵力数の差があっても、上陸したアメリカ軍に自軍の被害と同等か、それ以上の甚大な被害をもたらすことができるようになったのです。

そして、彼のこの戦法を取り入れた効果が最も顕著に現れた戦いが、1945年2月19日〜3月26日の36日間、東京都の小笠原諸島に位置する全長7キロの豆粒ほどの小さな島で起こりました…。

その戦いは、はじめ「5日で終わる」と言われたにも拘らず、36日間にわたって持ちこたえ、米軍の日本本土侵攻を遅らせることとなりました。

そして、日米大戦において、アメリカが攻勢に転じてから米軍の被害が日本軍のそれを上回った唯一の戦場になったのです。

しかも、その95%が職業軍人ではなく、ただの民間人であったにもかかわらず…。

一体それらは、どのようにして成し遂げられたのか…?

日本人には忘れ去られてしまった、しかし世界中に記憶され続ける「無名の英雄たち」が戦った歴史に残る死闘の全貌を昨日の記事に公開しました。

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