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2019.8.15 忘れ去られた日本の英雄

生存率5%の孤島戦…世界中が語り継ぐ36日間の激闘

日本人には忘れ去られてしまった、世界中に記憶される1つの島がある。それは、東京から南におよそ1200kmに位置する、全長7kmの豆粒ほどの小さな島。日米大戦当時の1945年2月19日~3月26日の36日間、この島で日本の将来をかけた歴史に残る死闘が繰り広げられた。

当時、米軍は日本本土の軍事施設や工場への空爆を開始していた。しかし、米軍はその空爆にいくつかの問題を抱えていた。まず、爆撃機の飛ぶサイパン島から東京までの距離は往復4700km。その距離を飛ぶためには、大量の燃料が必要となり、搭載する爆薬の量を減らさなければならなかった。

そして戦闘機がその距離を飛ぶことは不可能だったため、爆撃機は戦闘機の護衛なしで飛ばなければならなかった。そのためサイパン島に戻るまで、爆撃機に損傷や故障があれば、太平洋の海原に墜落するしかなかった。

「もしも攻撃の途中に、どこか場所があって給油や修理ができれば、日本をもっと効率的に爆撃できる」

そう米軍が最も願った位置に、「硫黄島」は存在していた。

その位置はまるで測ったように、東京都サイパン島を直線で結んだ、そのちょうど中間にあった。さらに、硫黄島は形すら運命的だった。

島は全体的に平坦で、標高196mの小さな山―――摺鉢山があるだけ。その起伏に乏しい平坦な地形は、まるで自然の滑走路に見えた。太平洋の島伝いに日本本土に攻め上ろうとしていた米軍にとって、硫黄島は大きな足がかりだった。

そして日本からすれば、硫黄島を失うことは、日本本土への侵攻を許す、それはつまり一般市民に戦禍が及ぶことを意味していた。硫黄島を死守するために召集された日本兵の数は2万。しかし、そのうち職業軍人はおよそ1000人、戦争末期だったため兵士のほとんどが一般人だった。

農民、商店主、サラリーマン、教師…、30歳代を中心に働き盛りの家族を持つ普通の男性。それぞれの故郷で普通の生活を営んでいた人たちが召集され、この島に送られていた。彼らの役割は「勝つ」ことではなく、なるべく長い間「敗けない」こと。

日本軍約2万に対し、上陸してくる米軍は約6万。しかも後方には10万ともいわれる支援部隊がいた。その戦力を見れば、万にひとつも勝ち目はなかった。

日本軍の指揮を執っていた陸軍中将・栗林忠道は、部隊にこう告げた。
「生きて再び祖国の地を踏むことなきものと覚悟せよ」

できるだけ米軍の本土侵攻を遅らせること、それが硫黄島の戦いの全てだった。

1944年12月8日、屈辱の真珠湾攻撃からちょうど3年の日、米軍は硫黄島上陸の前に日米大戦始まって以来、最大の空爆と艦砲射撃を行った。それまで断続的に行われてきた空爆は、この日から上陸までの実に74日間、1日も休まず連続で行われた。この間に投下された爆弾は計6800トン。

激しい爆撃によって、摺鉢山は山頂の4分の1が吹き飛んだ。島そのものが消えてなくなってもおかしくないほどの爆撃だった。

そして1945年2月19日午前9時2分、米軍は硫黄島に上陸した。これまでの爆撃も踏まえ、硫黄島は「5日あれば攻略できる」と考えられていた。

米軍が上陸すると、硫黄島は静まり返っていた。「日本兵は爆撃で一人残らず死んだんじゃないか」と思われた。そして狭い海岸が兵員と物資、弾薬でいっぱいになった午前10時過ぎ、突如日本軍の攻撃は開始された。

その攻撃の威力は凄まじく、砲弾が命中すると米兵の四肢はバラバラになって吹き飛んだ。どこから攻撃されたかも分からない、その悲惨な状況は米兵たちを震え上がらせ、海岸はパニックとなった。この上陸日だけで、566人の米兵が戦死または行方不明となり、1755人が負傷した。そして99人が精神的ショックで、それ以上戦えなくなった。

硫黄島上陸までの間、米軍はどの戦場をも上回る量と密度で砲弾を撃ち込んだ。それにも拘わらず、日本軍のほとんどは生き残り、戦闘の準備をしていた。一体どうやって…。

起伏に乏しいこの島には、軍事上の拠点に適した場所がなかった。そのため日本軍の指揮官・栗林中将は、全ての陣地を地下に作ることを考えた。

つまり、巨大な蟻の巣のような洞窟陣地を作ろうというのである。しかし硫黄島は、摂氏60度にもなる高い地熱を持ち、地中からは硫黄ガスが噴き出す島。一般人だった兵士たちにとっては、その作業はあまりにも過酷だった。

ツルハシやスコップを使い、1日中かかっても手掘りでせいぜい1m、ダイナマイト1本使っても2m掘るのがやっとだった。地熱が高い所では足袋の底が溶けた。硫黄ガスのせいで頭痛が生じ、呼吸は苦しくなるため、作業は5~10分で交代しなければならなかった。

手は豆だらけ、肩にはしこりができた。

さらに硫黄島には川は一本もなく、湧き水も一切なかった。2万余の将兵は、時折降りつけるスコールの雨水を貯めて耐え忍んだ。

そして米軍上陸までの8ヶ月間で、全長7kmの島の地下に、26kmにも及ぶ洞窟陣地を作り上げていたのだった。

米軍は見えない敵と戦わなければならなかった。日本軍の攻撃を恐れ、穴という穴に手榴弾を放り込み、ガソリンを流し火をつけた。

火炎放射器で地下壕を焼き尽くした。それはまるで害虫を駆除するようだった…。米軍は日本軍に何度も降伏を勧告した。しかし、彼らは誰も降伏せず祖国を、本土に残る家族を守るため、最後まで地下壕にこもって抵抗した。

かくして、「5日で落ちる」と言われた硫黄島は36日間にわたって持ちこたえ、米軍の日本本土侵攻を遅らせることとなった。

硫黄島の戦いでの米軍の死傷者数2万8686名に対し、日本軍は2万1152名。日米大戦において、アメリカが攻勢に転じてから米軍の被害が日本軍のそれを上回った唯一の戦場が硫黄島です。そのため硫黄島の戦いは、アメリカをはじめ世界中に記憶されることになりました。

この壮絶な戦いはアメリカでしっかりと語り継がれ、硫黄島の摺鉢山に星条旗を立てた兵士のブロンズ像が、ワシントンのアーリントン国立共同墓地の横に建立されています。アメリカで硫黄島は、戦場における勇気と勝利の象徴であり続けています。

そして軍人の間で‟General KURIBAYASHI”の評価は非常に高く、栗林中将は「アメリカをもっとも苦しめ、それゆえにアメリカからもっとも尊敬された男」として今でも評されています。

一方の戦後日本では、これらの戦争の話は一切教えなくなりました。

当時のことを知る人は少なく、硫黄島はもはや忘れ去られてしまっています。しかもこともあろうに、戦死者の遺骨は今も島に残されています。硫黄島を奪取した米軍は、本土攻略に向けて滑走路の整備・造成を急いだため、日本兵の亡骸を収容することはなく、弔うことなく、その顔の上、胸、腹、足の上に直接、コンクリートを流し込んで滑走路を造りました。

硫黄島が日本に返還されたのは1968年。戻った時、直ちにこの滑走路を引き剥がし、遺骨をまず収集して故郷に持ち帰って頂く、それが世界の常識です。しかし日本政府はあろうことか、一部だけ剥がしました。あとで文句を言われるかもしれないと、およそ2割だけを剥がし、一部の遺骨だけを取り戻し故郷に帰しました。

おびただしい数の遺体が島全体、地下壕の奥に未だに眠っています。多くの遺骨、1万1000柱を超えると言われる遺骨を残し、海上自衛隊や海上保安庁がそのまま使い続けているのです。

しかし、日本でそんなことはほとんど問題になりません。

遺族以外、誰も知らないからです。学校で一切教えられていないからです。硫黄島の戦いのことなど、日本の歴史教育では1文字も出てきません。

その上、祖国を守った英雄として称えられるべき軍人は皆、日本の戦後教育では「悪者」扱いされてきました。

「悪者だから、悪者は滑走路の下に閉じ込めて、便利に使ってもよい」それが戦後日本の実態なのです。

お爺ちゃんが、お父さんが、夫が、兄弟が倒れた地に、遺族がその骨を踏んで降り立つしかない。硫黄島は、今現在そんな島なのです。

戦後74年経っても、未だ本当にあった戦争について我々は知らないのかもしれません。

政府にとって都合の悪いことが少しでもあると、私たちはそれらを知ることができないからです。責任はどこにあるのか?過去の戦争の教訓は何なのか?こういった本質的な問題には触れず、断片的な歴史だけを我々は教えられてきたのではないでしょうか。

私たちが今生きている社会は、紛れもなく先人たちの血の滲むような努力と、凄まじい戦いの上に成り立っています。先人たちが文字通り生命を懸けて守ろうとした日本、先人たちが築き上げた現代の日本。その基盤の上で、私たちは豊かさを享受しています。そんな我々の先人のことを私たちは本当に知っているのでしょうか。一人の日本人として、それを知らないままで良いのでしょうか?

今まで語られてこなかった戦争の裏には何が隠されていたのか。我々の先祖がどんな思いで苦難苦境を乗り越え、日本という国を守ってくれたのか。今一度、見つめ直しても良いのではないでしょうか…。

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