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2022.4.10 第二の国歌と言われた歌

『海行かば』は戦時中、準国歌とも言われ、戦地へ赴く兵士たちを高揚し、送り出す歌として用いられていました。

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現代語訳すると、このような意味になります。

<戦いで海に行くなら、水に漬かる屍となりましょう。
戦いで山に行くなら、草の生える屍となりましょう。
天皇のお側で死ぬのなら、決して後悔はしません。>

いかにも軍歌といった内容ですが、実は、この歌詞が書かれたのは1300年前、奈良時代のこと…。

そして、この詩を書いたのは、万葉集を編纂したことで有名な大伴家持おおとものやかもちです。

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どのような心境で、当時、この詩が書かれることになったのか?

詩を詠んだ大伴家持の社会的な立場、当時の日本の時代背景などから、現代では以下のように分析できます。

東大寺の建造にあたり、749(天平21)年、聖武天皇は東大寺に赴き、造営中の大仏の正面に対座され、『宣命』を読まれました。

東北地方での金の採掘に対して喜びを述べ、先祖が守ってきた自然の恵みに感謝し、また、それに仕えた多くの大臣、その子孫を称えました。

特に大伴氏、佐伯氏を名指し、
「海行かばみづく屍、山行かば草むす屍、王のへにこそ死なめ、のどには死なじ」
と語られたのです。

ここで大伴氏の名が呼ばれたことに家持は感激し、
『陸奥国に金を出す詔書を賀す歌』
という長歌を歌いました。

その中にあるのが、
《海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大王の辺にこそ死なめ かへり見はせじと言立て》
です。

ある意味、大仏は国家的事業である大きな文化建造物です。

その時代の文化の実現と共に、この言葉が書かれたことに、家持の歌人としての精神性を感じます。

戦時中、『海行かば』は、ひたすら戦争の歌として人々に口ずさまれました。

しかし、これが文化的建造物の実現を祝して歌われたことが、その歌詞に深い意味を与えていたことを忘れるべきではないのです。

『海行かば』という歌は、ただ聞いただけでは、戦争を賛美するために作られたように聞こえてしまいます。

私も初めはそのように聞こえてしまいました…。

しかし、大伴家持と言う名前に気付いて調べてみたところ、実は奈良時代に
書かれた詩であることを知り、この詩が東大寺の大仏の完成を祝して詠われ、全く戦争に関係ない歌だったことが分かりました。

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このように、日本人が古くから受け継ぐ文化や精神性は、GHQによって奪われてしまったり、戦時中に軍部によって歪曲されてしまったりして失われつつあります。

今回の記事がそれを防ぎ、本来ある正しい日本文化を後世に残す一助になればと思います。

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