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2021.9.5 モナ・リザを知れば日本人が分かる?

その価値およそ900億円。
世界で最も高価なこの絵画は、芸術の最盛期であるルネサンスの時代に生まれ、500年以上の時を超えて世界の人々を魅了してきました。

世界の誰もが認めるこの名画を分析していくと、ある1つの事実が浮き彫りになってきます。

それは、遠く離れた東洋の島国…。
ここ日本では、ルネサンスよりも遥か800年も前から、『モナ・リザ』にも並ぶほどの芸術表現を完成させていたということです。

もし皆さんの中に
「美術の世界は西洋が中心だ」
「日本の美術は西洋に劣っている」
という考えを持っている方がいるなら、今回の記事は、あなたの考え方を根本から覆すことになるでしょう。

『モナ・リザ』と日本の芸術作品を比較していくことによって、意外にも日本の美術が西洋に負けずとも劣らない素晴らしさを持っているということを…。
ひいては、西洋にはない日本独自の美の価値観、精神性、文明の特徴までもが明らかになっていきます。

東京オリンピックの総チケット収入にも匹敵する価値、およそ900億円の値がつけられた絵画『モナ・リザ』。

この作品はなぜ“名画”と呼ばれ、世界中の人々を魅了するのでしょうか?
モデルが誰なのかというミステリー…。
実際にそこにいるかのようなリアリティ…。

世界最高額をつけられているだけに、『モナ・リザ』には様々な魅力が語られます。
しかし、その代表的な魅力は「微笑み」にあると言われています。

『モナ・リザ』の微笑は、どうして魅惑的なのか。
その秘密は、顔の中心に一本の線を引くことで浮かび上がってきます。

上の『モナ・リザ』の右半分の顔に注目して下さい。
顔の半分は口角が上がり、どこか生き生きとした目をしているように見えます。

一方で、顔のもう半分は口角が上がっておらず、どこか悲しそうで寂しそうな目をしているように見えないでしょうか。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、顔の片側に喜びの表情を、もう片側には哀しみの表情を称えるという、一見矛盾した描写を全く不自然に見えないように再現したのです。

このように、レオナルドは巧妙に設計された表現によって、ある人には喜びの表情に見え、ある人には哀しみの表情に見える、そんな『モナ・リザ』の神秘的な微笑を作り上げたのでした。

ここから分かるように、人の心を魅了する優れた芸術であるためには、1つの作品の中に複数の表現や見方が含まれているということ。
つまり、「多義的」な表現がされているということが、非常に重要だと言われています。

そして、『モナ・リザ』が世界最高の美術作品たる所以は、相反する喜びと哀しみという感情を同時に自然な肖像画の中で描いていることにあったのです。

このように、複数の意味や見方を持たせるという「多義的」な絵画表現ができるようになったのは、およそ15~16世紀頃。

ちょうど『モナ・リザ』が描かれたルネサンスの時代でした。

しかし、それよりも約800年も前になる7~8世紀頃に、複数の意味や見方を含ませる「多義的」な表現を可能にしていた国がありました。

実はそれが、私たちの国である日本なのです。
実際に美術作品を見ると、そのことがよく分かってきます。

上の写真は、奈良の東大寺に安置されている仏像『日光菩薩』と『月光菩薩』です。
左側が月光菩薩、右側が日光菩薩とされています。
さて、ここで質問です。
この2体の仏像は、それぞれ男性でしょうか?
それとも女性でしょうか?
少し考えてみて下さい。
もうお気づきかもしれませんが、この仏像は男性的でもあり、女性的でもあります。
見る人によって、男性の強さも感じることができ、女性の優しさも感じることができます。
そんな複数の見方ができるように表現されており、ここに高度な芸術性を感じることができるのです。

そうは言われても
「一体この表現のどこが凄いんだ?」
「簡単にできそうじゃないか?」
と思われている方もいらっしゃるかもしれません。

しかし、高いレベルの芸術作品の数々を生み出したギリシャ美術における試みを見ると、その凄さを理解できるようになります。
実は、古代ギリシャにおいても『日光・月光菩薩』のような男性的であり女性的である、という像の模索がされていました。

多くの芸術家たちが試行錯誤した結果、生まれたのが下のこれらの絵です。

いかがでしょうか?
『日光・月光菩薩』のような自然さはなく、男性と女性が単に合体しているだけのような、非常にあからさまな表現になっています。

世界でも指折りの美術作品を作ってきたギリシャの芸術家たちが、本気になってこのような作品を作っているのです。
ここから分かるように、男性と女性のような2つの矛盾したものを、1つの表現として自然に描写することは極めて難しく、この難しさこそ、『モナ・リザ』が世界で評価されている理由でもあります。

男性らしさと女性らしさを同時に併せ持つ『日光・月光菩薩』は世界最高のルネサンス美術にも並ぶ、非常に優れた芸術作品だということが言えるのです。

西洋美術史研究の第一人者で、東北大学の田中英道名誉教授は
「芸術とは、絵や彫刻による視覚的な哲学である」
と語ります。

一般的に使われる哲学が、言葉や文字によって紡がれる思想の在り方ならば、芸術は形によって紡がれる思想の在り方だという言い方ができます。

『日光・月光菩薩』のような優れた芸術作品が、日本から誕生したということ。

しかも、西洋文化の頂点ともいうべきルネサンスの到来よりも、遥か800年も前に登場したということから、ずっと昔から日本人は、世界最高レベルの深い思想や精神性を持っていたという事実が見えてきます。

さらに、より注意深く西洋や中国・朝鮮の芸術作品と比較しながら日本美術を見ていくと、西洋にはない日本独自の精神性、日本文明の在り方までもが、ありありと浮かび上がってきます。

例えば、なぜ日本だけが芸術性の高い仏像を生んだのか?

日本の天平文化の代表作『日光・月光菩薩』を例に話を進めてきましたが、この他にも優れた仏像が、この時代の日本で数多く登場しています。

しかし、日本以外の仏教国…、例えば、仏教の発祥であるインドや伝播した東南アジア、そして日本に仏教を伝えた中国や朝鮮にも日本ほど完成度の高い仏像は存在しません。これは一体なぜなのか?

そして、なぜ日本では「怒りの像」が美化されるのか?

日本天平美術の中には、しばしば怒りを表現した仏像が登場します。

西洋でも同様に、怒りを表現した彫刻は存在しますが、怒りの表現を傑作と言えるレベルにまで昇華させた国は、日本をおいて他にはありません。
一体なぜ日本だけが、怒りを美に変えることができたのか?

これらの問題は、それぞれの国の精神文化と非常に密接な関係を持っています。
この謎を紐解いていくことで、文字史料だけでは捉えることのできない日本人の精神の歴史がはっきりと分かってきます。

しかし、これまで日本の歴史教科書では、このような美術を始めとする文化史や文明史はコラムで扱われる程度。
日本人として誇るべき歴史が、全くと言っていいほど教えられてきませんでした。

その代わりに教科書では、権力争いと支配者交代の歴史が中心的に教えられます。

もしかしたら、皆さんも歴史の“メインストリーム”は戦争や支配者交代の歴史で、文化史や文明史は“支流”にすぎないというイメージがあるかもしれません。

しかし、権力争いや支配者の交代といった時代の変遷に従って移り変わる歴史だけを見ていては、この時代の権力者が誰だったのか、どのような政治体制が敷かれ、その後どのように打倒されたのか。
このような歴史の中の“変化”しか捉えることができません。
でも、歴史とは必ずしも変化を起点としているわけではありません。

むしろ、私たち日本人にとって、より重要なのは変わらぬ日本人のアイデンティティは何なのか、日本文明とは何なのか。

日本と西洋、日本と中国や朝鮮との違いは何なのか。
このような“変化しない”歴史の方ではないでしょうか。

日本は古来より、文字よりも形を重んじてきました。
文字がまだ無かった古代には、極めて造形性の高い縄文土器やピラミッドよりも大きな墓や古墳がありました。

文字が登場した後の飛鳥時代や奈良時代でも同じです。
美しい法隆寺が建てられても、我が国の正史である『日本書紀』には建立に関する記事がありませんし、東大寺の大仏が造営されても、そのプロジェクトリーダーの働きについては語られず、彼が亡くなった時に、その死についての記事が出されただけでした。

日本は文字史料があまり残っていないがゆえに、
「日本文明の発展は諸外国よりも遅れていた」
と考えられてきましたが、形として残る遺跡や美術作品に目を向ければ、たしかに豊かな日本文明が存在していたということが分かります。

日本美術は、いわば変化だけに目を向ける歴史観からの“解毒剤”です。
日本美術を見ていけば、日本人とは何か、日本文明とは何かといった、一貫した変わらぬ日本の歴史を感じることがき、決して中国や朝鮮よりも発展が遅れていなかったということ、西洋に負けずとも劣らない豊かな文明が日本にあるということが実感できるはずです。

文字史料ばかりに歴史を見出し、自虐史観に陥っている日本人に本当の歴史を知ってほしいですし、日本文明の素晴らしさを心から感じ、日本人であることに誇りを持ってほしいです。
そして、子や孫の世代、あるいはもっと先の世代へ日本人の誇りを繋いでいってほしいと思います。

今回も最期までお読み頂きまして、有り難うございました。

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