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2023.5.15 【全文無料(投げ銭記事)】日本人として知るべき“超親日国”

鎌倉時代、2度に渡り行われた、大蒙古国・元による非道な日本侵略『元寇』

3度目の脅威が目の前まで忍び寄っていたことを貴方はご存知でしたでしょうか?

実は、日本がこの危機から免れた裏には、盾となり、守ってくれたある“親日国”の存在がありました。

今回は、その身を挺して元軍を海に沈めた『親日国』について書き綴っていこうと思います。


日本とベトナムは自然の同盟関係

「現下の国際情勢下、ベトナムにとって日本は最も信頼できるパートナーであり、自然の同盟関係にある」
とは、ベトナムを代表する歴史学者でもあった故ファン・フイ・レ歴史学会会長の言葉です。

ファン・フイ・レ

“自然の”というのは、人為的な条約など結ばなくとも、中国の圧力の下で自由を求めているという共通の運命から、ごく自然に力を合わせるべく結ばれているという意味でしょう。

例えば、ベトナム民族の独立と解放運動の最も著名な指導者として、教科書にも取り上げられているファン・ボイ・チャウは、日露戦争に勝った日本へ渡り、大隈重信や犬養毅の支援を受けて、独立志士300名を日本で学ばせました。

ファン・ボイ・チャウ

古くは、元寇が起こった文永の役(1274年)、弘安の役(1281年)の後、第三次侵攻が計画されていましたが、1288年にベトナム軍が攻めてきた元の海軍に壊滅的打撃を与え、そのお陰で3度目の襲来を免れたという“自然の共同防衛”もありました。

更に、国民同士の心を通わせるのは、残留日本兵たちと彼らがベトナムに遺した妻子との繋がりでしょう。
それは悲しくとも美しい数々の物語でした。

「私ハ ハルコデス」「私ノ夫ハ 日本人デス」

代表的なものとして、ここからは日本語教師としてベトナムへ渡った小松みゆきさんが体験された話を紹介したいと思います。

その家から出てきた白髪を後ろに束ねた小柄なベトナム人老女性が、小松みゆきさんに片言の日本語でこう語りました。

「私ハ ハルコデス」
「私ノ夫ハ 日本人デス」

なぜ、この女性が日本の名前を持っているのだ」
と、小松さんは面食らいました。

お茶を頂いて、少し落ち着いたところで、その女性は歌を歌い始めました。

♪ 山ノ淋シイ 湖ニ ヒトリ来タノモ 哀シイ心 胸ノ 痛ミニ耐エカネテ

後でこの歌を調べてみると、1940年に高峯三枝子が歌ったヒット曲『湖畔の宿』という曲でした。

続いて何曲も日本の曲を歌い、まるで
「私ノ夫ハ日本人デス」
という言葉の証明をしているようでした。

この老女性グエン・ティ・スアンさんの夫だった清水義春上等兵は、1945年10月7日、日本降伏から2ヶ月後に離隊し、ベトナム独立を目指すベトミン(ベトナム独立連盟)に加わりました。

その頃、スアンさんはベトミンの従軍看護婦見習いとして働いており、二人は結婚しました。

その後、清水さんはベトミンで軍事訓練の指導に励みました。
1948年頃からは、ハノイから60kmほど北東のタイグエン省に移り、そこで財務省が管轄する薬草づくりを夫婦で行っていました。
そこで三人の子供を授かりました。

今回は長い出張になる

1954年春、清水さんはスワンさんに、
「出張だ」
と言って、数ヶ月留守にしました。
帰ってきてからは、浮かない顔をしていましたが、1ヶ月ほどすると、
「今回は長い出張になる」
と言い残して出て行きました。
行き先も告げません。

やがて周囲から、
「一緒に働いていた日本人は、みんな日本へ帰ったらしい」
と聞かされて、スアンさんは呆然としました。

その後、何年待っても手紙も来ず、夫はもう帰って来ないと覚悟を決めて、懸命に3人の子供達を育てました。

この頃には、中国軍がベトミンを支援しており、600人ほどもベトミンと一緒に戦っていた残留日本兵たちは、居場所を失っていました。
中国軍の圧力があったのでしょう、ベトミンは残留日本兵を共産主義革命の尖兵として日本に帰すという政策をとりました。

戦時中に、中国共産党は、延安で日本軍捕虜に対して洗脳によって贖罪意識を植え付けることに成功し、これがGHQによる『ウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)』のヒントになったということが記録に残されています。

ベトナムでも同様に、最初の数ヶ月の短い出張とは、残留日本兵を集め洗脳を行い、その後、彼らは日本での共産革命の使命を与えられて日本に帰されたようです。
同様に、洗脳集会に参加させられた台湾人兵士の手記が小松さんの著書に収録されています。

残留日本兵たちは、言うことを聞かないと自分だけでなく、家族がどんな目に遭うか分からないという恐怖感もあったでしょう。

こう考えると、黙って去って行ったという不思議な行動も理解できます。

まだお父さんと呼んだことがないんだ

当時、ベトナムで日本語教師をしていた小松みゆきさんは、現地の邦人社会や日本語を学ぶ生徒たちを通じて、幅広いネットワークを持ち、そこから何人かの在留日本兵の子供だという人々と出会いました。

その縁を辿って、清水義春さんが富山に住んでいることが分かり、小松さんは、2004年に一時帰国した際に思い切って訪ねてみました。

清水さんは脳梗塞で半身不随、日本で結婚した妻の映子さんの介護を受けていました。

帰国後の清水さんは、仕事が見つからなくて大変だったそうです。
また日本とベトナムとは戦後、国交がなく、手紙のやりとりもままなりませんでした。

小松さんの情報がきっかけとなって、NHKでドキュメンタリー『引き裂かれた家族 ~ 残留元日本兵とベトナムの60年』が制作・公開され、その中で、清水家からのビデオレターを観るスアンさんと子供たちの場面も放映されました。

スアンさんは涙を抑えきれずに、日本へ帰った夫への愛情を切々と語り、還暦近くになった長男フィさんも、溢れる涙を拭きもせずに、
「まだお父さんと呼んだことがないんだ」
「悲しい」
と訴えていました。

「私には夫がいるんだ」「私たちにはお父さんがいるんだ」

清水さんの娘である和子さんは、このシーンに釘付けになりました。

「ベトナムに帰りを待っている家族がいるなら、お父さんを連れて行ってあげないと」
そう言って、両親を必死に説得しました。

和子さんの夫は
「私は仕事で行けないから、その代わりに」
と、全員の旅費を負担すると申し出てくれました。

和子さんの息子たちは、清水さんを車椅子で介護するために同行してくれました。

こうして2006年12月7日、清水さん一行がハノイ・ノイバイ国際空港に着き、スアンさんの家族総出で出迎えました。

翌日、スアンさんの家で盛大な歓迎会が開かれました。
村人をたくさん招いての大宴会です。

もちろん家には入りきらず、中庭にテントの席が設営されました。

今までスアンさんは、
「日本人に捨てられた」
とか、子供たちは『コンライ(混血児)』と差別されたこともありましたが、この日はスアンさんと清水さんが中心席に並んで座り、その様子は長年連れ添った夫婦そのものでした。

小松さんの目には、スワンさんと子供たちが、
「私には夫がいるんだ」
「私たちにはお父さんがいるんだ」
と、誇らしげに胸を張っているように見えました。

清水さんも嬉しそうで、徐々にベトナム語を思い出して、カタコトの単語が出始めました。

帰国後に連絡できなかったことを詫びる言葉もあり、その度に周囲が沸き立ちます。

和子さんも、父親にもう一つの家族が遠いベトナムにいるという現実を受け入れるまでに、大きな葛藤があったことでしょう。

しかし、それを乗り越えて、父親を連れてベトナムのもう一つの家族をこんなにも喜ばせてくれたのでした。

和子さんたちは、
「なんて素敵な家族なんだろう」
と、小松さんは思いました。

スアンさんを抱きしめられた皇后陛下

2017(平成29)年2月28日~3月5日まで、天皇皇后(現上皇・上皇后)両陛下がベトナムを訪問されました。

日越外交関係樹立42年後にして初めての両陛下ご訪問であり、かつ退位の前の最後の外国訪問でした。

その中で3月2日、残留元日本兵の家族とのご対面が実現しました。

小松さんが案内役で、家族の立ち位置は全て決まっており、両陛下は前列の3人だけにお声掛けされるはずでしたが、両陛下が登場されるや後ろの人たちも前に出て、皆私も私もと両陛下に手を差し出し、中には手を握って離さない人までいました。

その中にあって、正装したスワンさんは背筋をすっと伸ばして立っていました。

「ずいぶん苦労なさったんでしょう」
という陛下の問い掛けに、スワンさんは笑みを浮かべてこう答えました。

<両陛下はご高齢にもかかわらず 、私達に会ってくださり、これ以上嬉しいことはありません。
私がいなくなってもこの友好が続きますように。>

この言葉を聞いた皇后陛下は、小柄なスアンさんを思わず抱きしめられました。

このシーンはNHKでも民放でも何度も放映されました。
この時の両陛下のお歌が公表されています。

天皇陛下(上皇陛下)御製
戦の日々 人らはいかに過ごせしか 思ひつつ訪ふ ベトナムの国

皇后陛下(上皇后陛下)お歌
「父の国」と 日本を語る 人ら住む 遠きベトナムを 訪ひ来たり

ベトナムの子供たちに渡された父の分骨

両陛下のベトナムご訪問のインパクトは非常に大きく、日本のメディアも残留日本兵と家族のことを大きく報じました。

日本からは残留日本兵の家族を支援したいという申し出も寄せられ、それが機縁となって、家族たちの訪日が実現しました。

「日本は父の国だから永遠の憧れ。一度でいいから行ってみたい」
と、家族たちは願っていたのです。

もう60代、70代となっていた残留日本兵の子供たち14名の一行が、2017年10月18日に羽田空港に到着しました。

日本では父たちの日本での家族と面会したり、お墓が判明した場合には、墓参りをしました。

一行の一人カインさんは御殿場の霊園を訪れ、雨に濡れるのも厭わず、父親の墓石にしがみついて慟哭していました。

スアンさんは病床にあり、代わりに3人の子供たちが初めて来日しました。

富山から清水和子さんがやってきて、3人に面会しました。

2006年の訪越以来、文通を続けていたのです。

この時、和子さんは6年前に亡くなっていた清水義春さんの遺骨の一部を、ベトナムの兄姉に渡しました。

思いがけない申し出に、小さな包みを受け取った長男のフィさんは、
「これは私たち家族にとって精神的な支えです」
と言って、溢れる涙も拭かずに頭を下げました。

分骨を受け取ってベトナムに戻ったフィさんたちは、村の人々や関係者50人以上を招待して、清水さんの供養を執り行いました。

入院していたスワンさんは病院を抜け出して、この時だけピンと背筋を伸ばして人々の中に座っています。

「これは妻の役目ですからね」
と毅然と話していました。

清水さんの供養を済ませた後、スアンさんの病状は再び悪化し、翌年1月には 清水さんの待つ天国へ旅立って行きました。

葬儀では、
「ナモアジダファッ(南無阿弥陀仏)」
と読経が響きました。

ベトナムでは、お墓は一人一基です。
スアンさんのお墓と清水さんの分骨を収めたお墓が仲良く並びました。

スアンさんは、
「この世で一緒になれないなら、あの世でドゥク(清水さん)と一緒になりたい」
と、よく言ってましたが、長年の願いがやっと成就しました。

ベトナム人が見せた家族や先祖に対する強いこだわり

日本に帰っていった夫や父を求めるベトナムの妻や子たちの思いは、スアンさん一家と同様に深いものでした。
これについて小松さんは次のように書いています。

<ベトナム人の家族や先祖に対する強いこだわりには驚かされた。
彼らが一途に夫や父を想う姿は、今の日本ではあまり見られないものだ。
・・・
そもそも、自分たちを捨て去って行ったはずの父親を、なぜベトナムの彼らがこれほどまでに求めるのか、現代の日本人には想像できないだろうと思った。>

“家族や先祖に対する強いこだわり”を持つベトナム人は、同様に“子供や子孫の幸福に対しても強いこだわり”を持つでしょう。


ベトナムは、この1000年間で中国から10回以上侵略される度に、何度も撥ね返してきた歴史を持っています。

その後、フランスの侵略に対しても、アメリカ相手のベトナム戦争でも、粘り強く戦って撃退しました。

戦後の短い中越蜜月期間の後は、中国から3度の侵略を受けてもベトナムは、断固妥協することなく頑強に抵抗しています。

2021年に77ヶ国を対象に行われた世界価値観調査では、
「自国のために戦わなければならなくなった場合、進んで戦いますか」
という質問に、
「はい」
と答えた率は、ベトナムが世界トップで96.4%でした。

それは、ベトナム人が見せた“家族や先祖に対する強いこだわり”に根っこがあるのではないかと考えます。

そこから子孫の幸せを真剣に考える国民ほど、侵略してくる敵とは自ら戦おうとするのではないでしょうか?

この点は、“自然な同盟関係”にある我が国は、ベトナムから学ぶべきでしょう。

なにしろ、
「進んで我が国のために戦う」
という日本国民はたった13.2%。
77ヶ国中、一番最低だったのですから…。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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