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「いい子」は一番辛い生き方

「いい子だね」って子供に対しての褒め言葉に使われるけど、「いい子」ってなんだろう。

何にとって、誰にとっての「いい子」なのかわからない。なのに、何となく「いい子」の共通認識、ニュアンスが出来上がっている気がする。

そんな何だかよくわからない「いい子」演じちゃうって人も、日本人には多いと思う。でも、「いい子」であることは社会的に価値があると思う。

「いい子」は、大人の言うことをちゃんと聞いて、やると言ったことをちゃんとやり、途中で投げ出したりしない。社会的にはすごく助かる存在。

「いい子」がいない社会は大変なことになるのは目に見えている。みんなが皆んな、言うこと聞かない、言ったことやらない、すぐ辞めるってなったら、マジで社会回らないからね……
ありがとう、世の中で頑張ってくれる働く人たち……

「いい子」の存在が世の中を支えてくれてるんだけど、ただそれが本人にとって本当にそれが良いかは疑問。世の中的に助かるのと、個人が良いかどうかは、また別の話。

「いい子」を演じている分、自分を押さえ込んでいる、ということでもある。だから、「いい子」は、社会や世の中が必要とする自分であらねば、と思って、きっとそうしている。自分を亡くして、「いい子」であることを選択して、頑張ってくれているということだ。

「いい子」であることは、無個性だとか、小心者とか、「いい子」じゃないことにビビっているだけ、と思われるのかもしれない。

でも「いい子」の型に押し込めて生きるのは、本当はとても大変。だから、「自分「いい子」で生きてるなー」って自覚ある人は、それは本当にすごいことだと思って欲しい。

「いい子」がどうあるべきか分かっている人が、「いい子」の振る舞いを選択しないのは結構苦しい。あーだこーだ言われたり、自分が「いい子」でないことによって困る人を知っているし、どうなるかよくよくわかっている。だから、最初から「いい子」で振る舞わない人を羨ましいな、とも思ったりする。

「いい子」ができる人は、「いい子」である大変さを身をもって知りながら、「いい子」をやらないことで困る人も知っている。二重苦を抱えて葛藤している。

「合成の誤謬」という言葉がある。個人にとっては良い行動でも、大きな視点、マクロ視点で見ると実はあまり良くないことだったりするという意味で、節約なんかはその代表例。

ただ、これは逆も然りで、社会にとって良い存在「いい子」は、個人レベルでは良くない場合もあるのではないかと思う。しかも、この場合は個人が困るだけなので、本人が声を上げない限り、闇に消えてしまう。

「いい子」であることは良いこと、と一般的には思われているので、それを否定されることはなく、むしろ大いに肯定されるはずだ。

そうやって「この生き方が正解」「こう生きるのが良い」と思って生きると、どこかしらで歪みが生じることもあるだろう。なぜなら、それは"世の中"や"社会"が求める生き方だから、個人にとって最適化されている訳ではないので。

ただ、「いい子」は世の中にとって超重要で、絶対に必要なので、世界のみんなが一斉に「いい子やーめた」ってなると困るんだけど、「いい子」で生きるせいで辛い人、何なら、人生を終わらせる選択をするくらいなら、世の中や社会が求める生き方をする必要はないと強く思う。

どうしても、個と集団はぶつかり合う部分がある。個人にとって好ましいことは集団にとっては悪だったりするし、逆も同じ。うまいバランスを取りながら生きていかないといけないけど、そのバランスを取るのが、難しい。

私も比較的「いい子」の生き方をしてきた方だと思うけど、その歪みが出てきてるなぁと思う。もちろん「いい子」で得したり、良かったこともあるので、「いい子」でずっと悪かった訳ではないし、それなりのものを享受できている。

けど、自分を大切にする生き方を今一度見つめ直すのであれば、「いい子」でなくてもいいんだ、と心の隅にでも置いてもらえるといいなと思う。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

salar

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