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整えられた「自然」の道を歩く

「自然のある生活をしたい」
「老後は自然の豊かな田舎でのんびりと…」

こんな言葉を聞くが、ここで言う「自然」とはどんな自然を指しているだろうか。

ある程度インフラも整っていて、ネットも繋がって、今の生活水準を落とさない、だけど、自然に囲まれた生活。そんな幻想を抱いているのではないだろうか。

もちろんそんな想いを叶えてくれる場所もあるのかもしれないが、そのイメージにおける「自然」とは「作られた自然」なのではないかと思う。

新宿、渋谷のような都会や、都会まではいかなくても狭い区画を建物がひしめき合う場所を歩けば、最低限のスペースに植えられた街路樹や植え込みがある程度で、人工物しかほとんど目に入らない。

子供の遊び場である公園も、都会の希少な土地争いを何とか抑えて維持しているような世の中だ。それくらい希少になっている「自然」を追い求めたい気持ちもわかる。

ただ、本当の自然は、本当に厳しい。普段当たり前に享受しすぎているインフラなんてないし、水や食料ですらも手に入れるのは容易ではない。

そう実感したのはこの間のGW。運動兼ねての登山に月1程度で行くようにしていて、この間のGWにも多摩地区のハイキングコースに登山に行った。4〜5時間のコースで500mlの飲み物だけでは心許ないかな?と思いつつ、そのまま出発してしまった。

コースは山道や尾根をひたすら歩くコースだ。当然飲食店や飲み物を買える場所などない。しかもGWの中でも暑い日だったので、2時間経ったくらいにはほぼ飲み物は無くなってしまう。喉の渇きを感じながら歩かざるを得なかった。

飲み物を飲みたい時に飲めないことなど、普段はほぼ皆無。学生時代の授業中に、基本飲み物禁止されてた以来くらい、という久々の感覚だった。

むしろ、大人になってからある程度稼ぎがあり、自由に過ごせるようになってきて、出先での空き時間を埋めるためにカフェをハシゴ。喉なんて乾いてないけど、注文したから飲まないと・・となることの方が多いくらいだ。

水も容易には手に入らない登山コースで歩くのは、ハイキングコースとして整備されている道だけだ。

比較的ハードルの低い低山や、高尾山のような人気の山の一部コースでも、崖スレスレの1人分の幅しかない道を歩くことも多い。
少しでも足を踏み外したら、滑落する恐れが十二分にある。歩きながら、何度「ここ落ちたら…」と思ったことか…

少しでも作られた"道"を外れた瞬間に、山の素人である自分は、もうこの世に戻ってこれないのではないか、とすら思う。

だから「登山」とは言っても、先人が整備してくれた道をひたすら歩くだけで、登山家の人が行くような道らしい道もないような山、本当の意味での「自然」には足を踏み入れることはしていない。

そんなふうに、誰かが先に整備してくれた道を歩いているだけで、本当の自然の大変さは理解できてない。そんなレベルで簡単に「自然が好き」と、本当は言えないと思っている。



本当に、人間はどこまでいっても「ないものねだり」なんだと思う。

便利すぎたら自然が良いと言い、不便なら都会が良いと言う。そのないものねだりの「欲」こそが、社会を発展たらしめた所以ではあるのだけど。

結局、どんな環境に置かれても、「(今手に入らない)〇〇が欲しい」と言い続ける生き物なのだと思う。

でも、そういう〇〇が欲しいと願った人々の願いが実現し、作り上げられた世界の成果を、ただ後に生まれたという理由だけで享受できている。

自分がこの社会で生きれる理由は、登山と同じで、誰かが道を作ってくれたからだ。でなければ、もっと手前の道で迷って時間がかかって、どうしようもないくらいうだうだしていたはずだ。

整えてもらっている道の上を歩いてるんだなーと思うと、この時代に生まれてそれだけでラッキーとも思える。

ここ数年でキャンプも流行っていたりするが、「自然」に惹かれるのは、なるべくしてなったのかもしれない。

あえて不便な自然のある環境に行くことで、普段生活している整えられた場所に対して「密かな抵抗」をしている、とでも言えるだろうか。

きっちり区画化された土地、コンクリートで固められた道、という人工的な世界に疲れて離れたい、そんな思いが自然を魅力的に魅せるのだと思う。

自分も自然の良さに取り込まれてしまった一人なのだけど。整えられた道を歩きながら、大いなる自然に包まれていきたい。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

salar

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