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酸っぱい葡萄を思う存分食べたら優しくなれるのか?

「福祉」とはどういうイメージを持っているかという記事を拝見しました。
タイトルだけで頭が空回りしてしまって申し訳ないのですが中身が入ってこなく、もう一度読み返そうとしたら行方不明になってしまったのです。
頑張って探します。

自分にとって福祉とは、幸運な人だけが受けられるもの。
繋がれた人だけがずっと受け続けられるもの。嫌な言い方を刷れば既得権益。

誰かの言った「福祉は取っていくもの」という言葉が頭から離れなく、欲を出してガンガン行ける人だけが貰えて、その体力も気力もない人は貰えない物。
一度手に入れたらズルズルともっともっととその沼で生活することになるもの。

この悪印象の原因は自分の父や伯母、ライフハックとして色々な所で書かれる生活保護や福祉制度の賢い利用方法みたいな記事。
それからリアルで関わった人たち(もう知人とすら呼びたくない)が自慢気に言う福祉制度を狡賢く使ったり、それを解っていながら見て見ないふりをして運用している人たち。

そんなものばっかり見ていればろくなもんじゃないよな…と思うのも当然なのかなとも思います。

だからなのか今の「社会福祉に救われなかった自分」はとても複雑なのです。
良く酸っぱいぶどうなんじゃないの?と思われるのですが、それとはちょっと違う。

もし助けて貰ったら自分も昔見た人たちみたいにズルズルと制度を悪用して生きる「そちらがわ」に落ちてしまう恐怖感にずっとつきまとわれているのです。

ここから先は少し余談なのですが。
何らかの形で同じ苦しみを持っている人と関わりたいし、けれどもどこかで、憎らしさを感じそうで怖いのです。

ある時、虫垂炎で入院することになり。
面会時間フルに家族が付き添ってお世話して貰っている同室の同世代の子を見ながらコインランドリーに洗濯物をぶち込んで、点滴引っ張って屋上に上がったりTVを見て過ごしたりしていたのです。

今自分が罹っている病気でも自分やその下の若い世代になるとほとんどの方にはご家族が健在だったり、自治体の差なのか手厚い支援を受けることが出来て、通院や入院に付き添ってもらったり、どこかに連れて行ってもらったりするブログを読むだけで体調を崩すと布団を被って我慢している自分が情けなく感じたり、情けなく感じなきゃいけない事に怒りを感じたのです。親が早く亡くなったのも、父親が自分優位で生きていく人なのも私のせいではないのにと。

その差を感じるのが怖くて膠原病の患者会だったり、患者同士で情報を探せるようなコミュニティに入るのも躊躇していました。
(結局、膠原病でも少し年齢が高い世代が罹る病気だったので要らぬ心配でした)

助けてもらえなかった事は何もない時期でも思い出す事だけでも十分な辛さだったのですが、難病に罹ってしまった事で一気に悪化したような気がします。

もしよろしければサポートを頂けると宇宙猫のお食事にお漬物がひとつ…