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【vol.5】ミュージシャン 井上富雄さん 「バンドから生まれる予期せぬ調和こそおもしろい」

 プロデューサー、アレンジャー、ソングライター、ベースプレイヤーとして活動中の井上富雄さん。ロックバンド「ルースターズ」のメンバーとしてデビュー。バンド脱退後の1984年、自らのバンド「ブルー・トニック」を結成、ギターボーカルとして活躍しメジャーデビューも果たす。1989年に解散後は、ベースプレイヤーを主軸に佐野元春率いる「THE HOBO KING BAND」、布袋寅泰、桑田佳祐、福山雅治など名だたるアーティストと共演する。自身の第3弾目となるアルバム『遠ざかる我が家』が絶賛発売中!

── ルースターズのデビューを機に、19歳で北九州から上京されたのですね。

 バンド結成は1979年の11月ごろで、僕が高3の時。その翌年の3月に、当時の音楽雑誌 『ROCK STEADY』主催のテープコンテストの全国大会に、ルースターズが出場して優勝したんです。〝ロック版スター誕生〟と言ったらいいのかな、会場にいたレコード会社やプロダクションがかなり手を挙げてくれて、九州までスカウトにきてくれたレコード会社もあり、それをきっかけに東京に出ることになりました。

──ルースターズでベースを担当されたきっかけは?

 中一で初めてバンドを組んだ時、たまたまベースをやっていたんです。ただ、ベースは一人で演奏していてもつまらないので、平行してギターも練習していて、高校で新たにつくったバンドでは僕がギターボーカルに。高校時代はバンド三昧でした(笑)。故郷の小倉は狭い町で、当時はバンドをやっている人も少なく、溜まり場は楽器店くらいしかなかった。その楽器店でバイトしていたのが大江慎也(ルースターズのリーダーでギターボーカル)でした。当時彼が組んでいたバンドのベースが辞めたため、僕が手伝いでベースを弾いたのがきっかけです。

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──ルースターズは、今の若い世代やミュージシャンからも一目置かれるバンドですよね。

 時代と自分たちの年齢とがちょうどマッチしていたからこそできた音楽だと思います。後評価の方が高いんですよね。僕が在籍しているころは、今みたいにメジャーじゃなかった。ライブハウスでの演奏でしたし。僕が辞めるころものぼり調子ではあったけど、もっとあとになって人気が出てきたと思います。ただあの少しの期間だけの活動が、皆さんが気に入ってくれるところなのかも知れません。ある程度のレア感というのですかね。1984年1月に脱退した僕にとっては、本当に凝縮された活動期間でした。

──その後、ブルー・トニックを結成し、ボーカルとギターを担当されたのですね。

 自分の音楽をつくりたいという欲求が出てきたというか、ルースターズでの作業内容はただベースを弾いていただけで、明確なビジョンなどはそんなに持っていなかったんです。メンバー内で一番若く、お兄さんたちについてやってきたみたいな感じもあった。その東京で音楽活動をする中で、いろいろな人と知り合って、いろいろな音楽・文化に触れました。当時はインターネットもなかったから、東京に来てダイレクトに刺激を受けて、やりたいことが徐々に見えてきたんでしょうね。24歳になる年です。

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 ブルー・トニックも結局みんな北九州の人たちで結成したバンドなんですが、もともとは僕と井嶋和男(現在スタイリストとして活躍の井嶋カズ)の二人組だったんです。そこに、北九州で人気だったビジュアル系バンド「ハイヒール」が解散して、ドラム、ベース、キーボードのメンバーが上京してくることになり、「じゃあ一緒にやろうか」という話になった。ベースはいるからということで、僕はギターとボーカルをやることに。実はそのベースがのちの東京スカパラダイスオーケストラの冷牟田竜之で、キーボードはその後オリジナルラブのメンバーになる木原龍太郎でした。

──メンバーはのちに有名になる皆さんだったんですね。井上さんがやりたい音楽は目指せたのでしょうか。

 どの楽器をやりたいとかではなく、音楽性はUKソウルを意識し、ファッションを含めてトータル的なプロデュースをしたかったので、リーダーとして試行錯誤しながらいろいろなことに挑戦できました。その中で詞を書いて、曲もつくって、初めての勉強期間でしたね。

 1986年にメジャーデビュー。1989年の解散後は、ベースプレイヤーとしての仕事が入るようになって、オリジナル・ラブのオファーが来たことを境に一気にベースの仕事が増えていきました。時代的に渋谷系というか、ファンキーだったりソウルフルだったり、ロックとは違うタイプのベースが目立つ音楽が流行ったんですね。

──その後、ベースプレイヤーとして佐野元春、桑田佳祐、福山雅治、布袋寅泰、斎藤ネコなど名だたるミュージシャンとのお仕事が続いています。バンド時代と比べての大変さはありますか?

 まずはベースから離れていた時期があったこと、その間にいろいろな音楽をやってきたことから、すごくベースが新鮮で、ルースターズの頃とは全然違うベースを弾けるようになっていた。以前よりもベースが楽しいと感じられるようになっていました。

 また僕はプレイヤーであると同時に熱心な音楽リスナーでもあるから、いろいろな音楽をたくさん聴いてきているし、新しい音楽を聴くのも好き。だからたいていは「なるほど、これはあの曲のこの部分をモチーフにとっているんだな」などとスッと入っていけます。フロントに立つ方の音楽性が多様性に富んでいても。僕はベースが好きというより、楽器が好きで、音楽が好き。結局は音楽をどれだけ好きで、どれだけ知っているか、ということに尽きるんじゃないかと思います。

──なるほど、演奏というのは協調性が欠かせない世界なんでしょうね。

 バンドって社会性のミニマムな世界ですよね。たった5人くらいの。それぞれの楽器の役割も、一人一人のモチベーションも全く違うもので、だからこそおもしろい。全然予期せぬことにもなりますよね。音楽をやっている人は、気配りの人が多いように思います。〝自分〟は音楽で表現すればいいだけなので。ましてやフロントに立ってやっている方は、周りのことを考えていないとスタッフもついてこないし、仕事としては成り立たなくなってしまいますよね。

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──今の若い世代のバンドの音楽はどうですか?

 すごく上手になっていますよね。YouTubeもあるし、はなからコンピュータミュージックにも接しているからテンポもきっちり取れている。画面で音楽を見られるから、「ピッチここ低いね」「リズムがズレているね」とかコンピュータでつくるからすごくためになるんだろうなって。ここで自分にはこんなクセがあるんだって目で見てわかりますからね。

 昔のレコーディングは「せーの!」でドラムがカウント出して、ジャーンってやるのが当たり前でしたから。最初に東京でレコーディングした時、ちょっと演奏を間違えたところがあって、「そこだけやり直す」とプロデューサーに言われて、「え、そこだけやり直せるんだ!?」って(笑)

 最初から最後まで一回も間違えずに弾かないといけないものと思っていて、それくらいの勢いでできるだけ一発で録ってやろうと思ってやっていたのですが。今にいたってはもうなんでもできる。編集で1番を2番に持ってきたり、機材も昔と全然違う。スタジオに行かなくてもレコーディングできる時代ですからね。

──ご自身もコロナ禍にリモートでアルバムを制作されたそうですね。

 はい、昨年の緊急事態宣言が始まった頃にレコーディングを始めて昨年中に作成し、レコーディングはリモートで、ドラムと僕の歌だけをスタジオで録りました。ある程度のデモテープを僕がコンピュータでつくって、それに合わせてドラムをスタジオで録り、その後にギターやキーボードを重ねていく。テンポはあらかじめ決めておくことは必須ですね。生で演奏すれば微妙に揺れていい感じなのが、始まったらきっちり終わりまで演奏しないといけないデメリットもあるのかな。でもきっちり録れるメリットの方が大きいかもしれません。やっぱりテンポがしっかりしている方が、後から重ねるのも楽だし、いろいろ編集もしやすい。ここまで完璧にほかの楽器もリモートでやったのは今回が初めてでした。

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井上富雄ニューアルバム『遠ざかる我が家』


 ただ、やっぱりバンドのレコーディングは顔を合わせて、「ここはこうやってもらいたいな」とか「そのプレーがいいね」とか、言いながらやるほうが良いですね。リモートだと「こういう感じで弾いてください」と渡して、向こうからそれが戻ってきて「いやそうじゃなくて…こういう感じにして」とか、実際手間も時間もかかる面もありますよね。

 今回のCD制作は、コロナ禍でライブ等が中止になったことで、自分の作品の見直す時間に充てられたことがきっかけに。20年くらい前につくった曲などをコンピュータ上でアレンジしたり、一生出さないままにしておくにはもったいないと思う曲も良いアレンジで収録できました。新しい曲ももちろんあり、結果的に自分の集大成的なアルバムになりましたね。なんだか少しわだかまっていたものがスッキリしたようなところもあって、次はこのテーマで行こうとビジョンが鮮明に見えるようになりました。

\井上さんからお知らせ/
「井上富雄アコースティック・ライブ PEACEVILLE」が田中ゲンショウのbeatcafeにて、4月10日(土)に開催(sold out)。ライブの一部をYou Tube「Tomio Inoue」で無料ライブ配信します!

【PROFILE】
井上富雄(いのうえ とみお) 1961年福岡県北九州市生まれ。1980年ルースターズのメンバーとしてデビュー。1984年ルースターズ脱退後、自身のバンド、ブルー・トニック結成。1989年ブルー・トニック解散。1990年、ベース・プレイヤーとしての活動を開始。その後はTHE HOBO KING BANDなど数多くのセッションを経験し、プロデューサー、アレンジャーとしても活躍。(主な共演)佐野元春、布袋寅泰、桑田佳祐、SION、福山雅治、トータス松本、スキマスイッチ、椎名林檎、元ちとせなど。

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