見出し画像

【vol.2】 シンガーソングライター YAMATOさん 「命に関わるドキュメンタリーを歌に」

 2004年、37歳で「音楽で生きていく」決意をしたYAMATOさん。起業、鼻の病気の完治…とさまざまなタイミングが重なった時期だったが、音楽活動に踏み切る大きな原動力となったのは「生まれ故郷・佐渡への想い」だった。現在、4月中旬発売予定の石川県能登のCD(2枚・各4曲)をレコーディング中のYAMATOさんに〝命に関わる歌〟へのこだわり、歌への想いをうかがった。 

 宮城県気仙沼を中心とする東日本大震災の被災地や、震災前からライブ活動を行ってきた熊本の地震被災地支援のために、仮設住宅でのライブや復興支援チャリティーライブを行い、支援ソングも手がけた。
 東日本大震災被災地には生活に関わるボランティアを合わせ、70回は通っただろうか。

 気がつくと「命」に関わることを歌のテーマとしてきた。それは偶然か必然か…2007年暮れにたまたま観た遺骨収容に関するドキュメンタリー番組に強く心を打たれ、使命感のように鎮魂歌『涙雨』を制作したのが始まりだった。

 この「涙雨」というフレーズーー
 番組内の「ガダルカナル島戦没者慰霊祭」でのスコールに対し、戦友遺族会「全国ソロモン会」の事務局長が遺族に語った「この雨はお父さんが待っていた『涙雨』なんだよ」という言葉が元となる。不思議と深く胸に突き刺さった。

戦争を知らない自分が作った鎮魂歌

 しかし、いざ歌の制作に取りかかると、最初のフレーズのみがバーンと浮かんだ切り、後が続かない…。戦争を知らず、興味のなかった自分がこのような重いテーマの曲を作ってよいのか… プレッシャーがのしかかり、制作は一旦止まってしまう。

 「そこから数か月、戦争について調べ続け、自分の戦争に対する誤解と無知さを思い知ることになる。そしてある時フッと思い立ち再び『涙雨』の曲づくりに取り掛かると、まるで嘘のようにスラスラと」

 完成した曲を戦友遺族会「全国ソロモン会」に提供したのをきっかけに、2009年3月にガダルカナルカナル島、7月にはブーゲンビル島の慰霊巡拝に同行する機会を得ることになった。「慰霊祭で『涙雨』を歌った時、まさに〝涙雨〟(スコール)を体験した。現地での慰霊の重みを痛感したのを機に、それまで意識したことのなかったシベリア抑留で亡くなった伯父の慰霊に行きたいと強く思うようになった」。すぐにシベリア抑留戦友会「東京ヤゴダ会」に連絡を取り、同年11月開催の千鳥ヶ淵墓苑でのシベリア抑留犠牲者鎮魂慰霊祭に参列、『涙雨』を歌わせてもらう。その翌夏、シベリア慰霊墓参ツアーに参加し、抑留経験者数名とギターを持って慰霊碑を回り歌を奉納した。

 その翌年起こった東日本大震災。
 「復興支援に通いながら、自然な流れで命に関わることが自分のテーマになっていくのを感じた」。北朝鮮拉致問題、殺人事件被害者遺族の会との関わりも続いていく。

画像1

(写真)ブーゲンビル島の慰霊祭で歌うYAMATO

画像2

(写真)殺人事件被害者遺族の会「宙(そら)の会」の特別参与を務める元成城署署長・土田猛さん(左)の畑の作業を手伝うYAMATO

一度は人生から完全に消えていた音楽への想い

 大学卒業後、中国広州の中山大学に語学留学。現・広州日本人学校で講師のバイトをしていた時に校歌の制作を依頼され、作った曲が校歌となり、現在も子供たちに歌い継がれている。また、帰国後この講師経験によって学習塾の講師を6年務めた。その後、携帯会社のサラリーマン経て起業する。

 「30歳を過ぎた頃から自分の生きた証を残したいと強く思うようになった。人生の方向性について真剣に考え、脱サラし起業したもののビジネスに向いてないことがわかった。同時に、年々故郷への思いが強くなっていくのを感じ、両親が健在のうちに、故郷に恩返しできることがないか模索している時期でもあった」

 帰省のたびに、故郷・佐渡島が年々活気を失っていく様子を目の当たりにしながら、人生で一番自分を魅了したものが「音楽」だったことを思い出し、音楽の力で故郷に恩返しできるのではないかという思いがフツフツと湧くようになっていた。そんな中、新大久保の楽器店にふらりと立ち寄り「ライブ出演者募集」のチラシが目に飛び込む。人生初のライブ。ライブハウスのオーディションを受け、音楽活動がスタートした。

 2008年にメジャーデビューを経験するも多くの制限や、レコード会社に関わる必要性を感じられず、自分でやっていこうと腹を括る。
 「今の商業的な音楽はほとんどが〝曲先〟。でも自分の曲は言葉ありき。言葉の表現は相当推敲して、少しでも違和感があればとことん追求する。大筋ができてからもメロディと言葉が調和するまでこだわって直す」。詩から自然に浮かんでくる曲をメロディにしているため、激しいロック調もあれば、バラード調もある。

画像3

(写真)昨年のコロナ禍の自粛直前に行った赤坂でのライブ風景

 心が動かされたものに正直にひたむきに。「自分の音楽活動の方向づけは、自分が意図したというよりは何か必要な方向づけが自然とされてきた、そんな感覚です」

 かれこれ70回近く通っている東日本大震災の被災地。初めて仮設住宅で歌った時、「大変な思いをした皆さんに自分の歌が受け入れられるのか…と、それまで感じたことのなかった緊張感を鮮明に思い出す」。不安で落ち込んでいたおばあさんが歌で元気を取り戻し、自分が気仙沼に行くのを毎回楽しみに待っていてくれるようになったことも。「改めて歌の力を実感させてもらった」。震災後5年の節目に、仮設での簡易的なライブではなく、プロのステージを見せてあげたいと思い、バンドメンバー10人を連れて気仙沼で無料コンサートを実施した。

 嘘や完全な想像では曲を作れない。一生懸命に、真摯に生きた人のドキュメンタリーに勝るものはない。そうした実際に出会った人、体験したこと、世の中の感動を吸い上げて世の中に発信していきたい。
(2021年3月8日)

<YAMATOさんの曲を視聴してみる>2019年10月発売 YAMATO Newアルバム【花鳥風月 絆】(全15曲視聴)

\YAMATOさんひとくちコラム/
 『涙雨』を歌っている時に雨が降ってきて実際の〝涙雨〟を経験したことが何度もあった。「先祖や人の魂は空気中に水分になって浮遊しているから、気持ちも届いているんだよ」と言われることがある。17年間の音楽活動の中、野外ライブが雨で中止になったことが一度もない。「もともと雨予報でも自分のステージまでに晴れることがほとんど。逆に、自分が出る前は土砂降りだったのに急に止んできたことも」。先月行った新潟のイベントもこの時期でありながら春のような陽気と、基本的に天気運が良い。母から昔「お前が帰ってくる時にはいつも天気がいい」と言われたのを思い出す。

【PROFILE】
YAMATO 本名:山登靖(やまと やすし) 1966年、新潟県佐渡市生まれ。法政大学卒業後、中山大学(中国・広州)語学留学。小6でギターを始め、中学、高校とギター三昧の日々を送り、文化祭等で披露。ミュージシャンを夢見ながら大学進学するも音楽活動は行わずに終わる。1991年中国留学中に現広州日本人学校の校歌を作詞・作曲、正式な校歌となる。2004年プロを目指し、都内でのライブ活動をはじめる。2008年マキシシングル『月』でメジャーデビュー。2011年中国南寧市「広西テレビ」の春節特別番組に日本人歌手として出演。同年NHKより取材を受け、首都圏ネットワークやNHK新潟放送局などで「戦争を知らない世代が歌う鎮魂歌」としてオンエア。2011年。2015年戦後70年をテーマに、全国各地(大阪、群馬、東京、三重、広島、兵庫、愛知、埼玉など)でライブを開催。YAMATO Official Blog

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?