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We were born.

例えば既に買った教科書を見て近所の図書館にあるかどうか確認してから買えば良かったなと思ったとか、タイピングに誤字が多くて授業中うまくメモが取れなかったとか、気づいたら午後4時になっていたとか、己の胸板に付いているささやかな脂肪の塊が無性に疎ましく邪魔に感じたとか、そういったなんでもない日常的なざらつきが、耐えられないほどの苦痛となって、心を蝕む時もある。なんでもない粒の大きさの紙ヤスリが、やたらとやわこくなった己の真ん中にある部分にいやらしくそして容赦なく身体を擦り付けてきて、不思議と、この上もなく絶望的な感情を誘う。平常運転時ならばなんとも思わないであろう摩擦が、地獄のように激しく熱く感じられる。そうして削り取られたあとのカスはなんだかとても汚らしくて、冷静になり、風に吹かれて飛んでいくそれらを見ながら、まあ時にはこういう気分になることも必要なのかもしれない、とか思ったりもする。無理くりヤスられることには納得がいかないが。そのカスがどこにも飛んでいかなくなって、汚らしく降り積もり、異臭を放つようになってくると、人は自殺をするのだと思う。問題は、どれくらいの異臭に耐えられるかどうかは人それぞれだと言うことだ。そして、いつその異臭に気づくかどうかも。

義務教育で習うはずの、有名な詩がある。確かタイトルは“I was born.”。この詩は父と息子が話すセリフが主体であり、賭けてもいいが、定期テストで問われる第一問目の答えは必ず「口語自由詩」である。この詩は柔らかい雰囲気と穏やかな父息子の会話から一見何でもない人畜無害な詩かと思われるが、実はそうではなくて、人が生まれること、そして生きること、命とは何か、そしてその儚さと尊さについてを物語っている詩ではなかったかと、最近になって考えた。この詩の終わりはなかなかに印象的で、少し生々しくもあるけれども、義務教育で習うことに非常に価値があると、私は思う。例えその時はあまり意味がわからなくても、後から今の私のように思い返せばいい。私だって完璧にこの詩を理解出来ているわけでもない。しかし私はこの詩が好きで、忘れ難い。人は能動的に生まれてくるのでは無く、受動的に生まれさせられるのだという、当たり前のようで当たり前でない、分かり得そうで分かり得ないことを、教えてくれたからだ。母親の胎内で訳も分からぬまま実を結ばせられた我々は、10ヶ月間と少しの自堕落な依存生活もそこそこにズルリ… と心根寒からしめる外界へと強制的に排出される。その直前、極めて衛生的な隙間風を感じた時に、良い予感がしたか、それとも悪い予感がしたか。運命説というのはその時点で人生の全てが決まっていると言うのだから、なんだか怖いと思う。

我々一人一人がこの世に生を受けること。それは、遺伝子上の偶然であり、先祖のうち一人でも欠けていれば成し得られることのなかった、言わば奇跡である。しかしそこに果たして意味があるのか? と問われれば、それはまた別の問題だ。生まれてきたことに意味なんてきっと無い。何でもかんでも正当な理由があると思い込むのは科学的思考の表れであり、傲慢だ。人生の意味とか、何か成し遂げようとか、私という存在に意味はあるのかとか、考えること自体を無駄だとは思わない。むしろ必要だと考える。折角脳みそがあるのだから。しかし、それに縛られては元も子もない。人生の意味や己の存在意義などは、それこそ「生」を前向きに、善くしていくために付属品として思考することであって、絶望するために考えることではない。何のために生まれたのかなんて、つらくなるなら考えなければいい。そもそも考える必要もないことだ。だって生まれた理由なんて、両親が望んだ、それ以外は基本的にはないと思うから。他人の願望につき合う義理はないのだから、生まれてきた以上、人生は、出来るだけ自分勝手に消費するべきだ。ただし、無駄遣いをしたり、粗末に扱うのは得策ではない気がする。代替品がないからである。そして、加えて言うとするならば、人の存在を功利主義的に考える人は、私は好きではなく、正しくないと思っている。

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