- 運営しているクリエイター
#小説
紫陽花の花言葉 17
父は静かに目を閉じ、声にせず何かを呟いた。自分自身に向けてなのか、心の中の前妻に向けてなのか。意を決した父は、再び目を開けた。
「──俺が夏越を遠ざけていたのは、透子の意志を尊重したからなんだ」
俺たちは耳を疑った。実の母が、息子を遠ざけるよう遺言を遺したとでもいうのか。
「清明、うちの一族に男子がお前たちの他にいないのは……知っているな?」
「うん。だから、母さんは跡継ぎになり得る兄さん
夢見るそれいゆ 259
海宝さんの真剣な眼差しに、私は正直に話さないといけないと思った。
「……彼女は、私の親友でした。今は、どう思われているのか分からなくなってしまったけれど」
弓道場の外からは、蝉の鳴き声が聞こえてくる。
「何か訳ありのようですね。私で良ければ話を聞きます。まったく知らない人間の方が話しやすいこともあるでしょう。もちろん、他言はしません」
私は國吉先輩に目を遣った。國吉先輩は的に集中していて、
紫陽花の季節、今年も君はいない
「紫陽花の季節、君はいない」の番外編です。
2023年6月30日。雨は降ったり止んだりを繰り返している。俺は午後から休みをとって、八幡宮の夏越の祓に参加した。
茅の輪を潜るのは、恋人だった紫陽花の精霊の紫陽を失った時のことを思い起こさせる。それでも儀式に参加するのは、八幡宮に住む精霊たちとの約束だからだ。
夏越の祓を終えて、俺は八幡宮の御涼所に向かった。御涼所にはケヤキの大木が葉を茂らせてお
紫陽花の花言葉 16
兄は微笑みを浮かべ、俺の目から溢れ出たものをハンカチで拭いてくれた。俺は「幼い子どもじゃないんだから、自分で拭ける」と可愛げのない言葉を投げ掛けてしまったが、兄は「そうだな」と、機嫌を損ねることもなく、ハンカチを手渡した。「後で洗って返す」と言った小さな約束が、兄との繋がりが出来たようで嬉しかった。
「──夏越……清明……」
目を覚ました父が、小さく呻くように、俺たちを呼んだ。
「お父さん!」
夢見るそれいゆ 258
私は海宝 航と名乗る男性を信じることにした。
「海宝さん、こちらこそ、不審者だと思って睨んでしまってすいませんでした!」
私は深々と頭を下げた。
「不審者……最近女子生徒が行方不明になった事件があったからですか?」
私は口を噤んでいた。
どうやら、海宝さんは國吉先輩や私が関係者だとは知らなかったようだ。
「ネットニュースでは、女子生徒の同級生が自宅の蔵に監禁していたと書かれてました。年齢に
紫陽花の花言葉 15
兄はゆっくりと腕をほどいた。そして、真剣な目で俺を見ている。
「『始める』って、何を?」
俺は兄の意図が分からず、聞き返した。
「今まで兄弟とは名ばかりで、まともな会話すらしてこなかっただろう?俺は律花さんを怖れていたけど、清明は何も悪くない。清明さえ良ければ、これから新しい関係を築いていきたいんだ」
「それは、家族だから?」
「……俺は家族の絆とかは分からない。だけど……親友家族が俺のこ
夢見るそれいゆ 256
週が明け、國吉先輩は高等部に登校してきた。その話題は、中等部にまで聞こえてきた。
ちなっちゃんの事件のことで、私と國吉先輩の関係を噂されていたので、周囲の反応に警戒していた私だったけど、意外にも女子から先輩のことで追及されることはなかった。ただ、男子の視線が今までと違うように感じた。
「ひな、それは『ついに、ひなが國吉のものになってしまった』という、男子の落胆だよ」
昼休みに私に会いに来てくれ
紫陽花の花言葉 14
ああ……同じだ。
そう思ったら、俺は兄に対する長年の思いをせき止めることが出来なくなった。
「俺だって、兄さんが父さんに自分を見て欲しいと思っていたように、兄さんに俺を見て欲しかった!だけど、母さんに見捨てられるのが怖くて、近づくことすら出来なかった。兄さんは俺のことに関心はないのかもしれないけど、俺は……俺はずっと兄さんと話してみたかった!」
「え……ちょっと清明、落ち着いて」
俺が大声でま
紫陽花の花言葉 13
目を覚ました俺は、簡易ベッドから降りた。
兄は俺が眠りに落ちる前と同じ姿勢で、父に付き添っていた。
「兄さんも少し眠ったら?疲れてるだろう?」
「あまり眠くないんだ。眠ってしまったら、その間にお父さんが……」
兄はその言葉の先を言えないでいた。言葉にしたら、現実化してしまいそうだと思うのだろう。
「ねぇ、兄さんは父さんが憎くないの?母さんが兄さんに冷たい仕打ちをしても、父さんはそれを咎める
紫陽花の花言葉 12
幼い頃、母に質問したことがある。
透子さんはどんな人だったのかと。
母から返ってきた答えは意外なものだった。
「あらゆる点で、敵わないお従姉様だったわ。家の立場だけではない。学校の成績も優秀、顔も整っていて、性格も穏やかだった。男女問わず、お従姉様に魅了されていたわ」
母の心底悲しそうな顔を見たのは、この時が最初で最後だったように思う。俺はそれきり母に彼女の話題をすることはなかった。
母は
紫陽花の花言葉 11
店内に戻ると、兄は運ばれてきた料理を食べずに待っていた。
「兄さん、先に食べてくれて良かったのに。料理、冷めちゃったんじゃないの?」
「せっかく清明と食事するんだ。俺は一緒に食べたかったんだ」
兄の眼差しは優しく澄んでいた。
はじめての兄との食事は、言葉少ないが穏やかな時間だった。本当はずっとこんな風に兄と向かい合いたかったのだ。
食事を終え、俺たちは病院に戻った。消灯時刻はとっくに過ぎて
紫陽花の花言葉 10
俺が母の【お人形】をやめたのは、菖蒲さんが家を去った時だった。
菖蒲さんは誰も見送ることなく、僅かな荷物を持って家を出て行った。
俺は、下校中に偶然菖蒲さんを見掛けて、条件反射で呼び止めた。
呼び止めたはいいが、何も話すことがなく黙り込んでいると、菖蒲さんは深い溜め息をついた。
「清明さん、あなたには自分の意思というものはないのですか」
恐ろしいと思っていた菖蒲さんの瞳は、母の冷たい眼差しと