昭和56、57年 所沢ダイエー、本厚木&立川駅ビルに出店
この連載では、戦後すぐに私の父が開業し、後に私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」について書いています。
昭和53年、池袋にオープンしたサンシャインに2店舗を出店したさくらトイスには、その後も出店の依頼が続きました。昭和57年には初めて、駅ビルのショッピングセンターへの出店もありました。
今回はその頃のお話です。
昭和56年、ダイエー所沢店は電子ゲームを集めた店に
昭和56(1981)年にダイエーから出店の話がきました。
埼玉県所沢市にスーパーダイエーができる。場所はプロぺ通りの突き当りにビルを建てるとのことです。
当時さくらトイスは、プロぺ通りに既に2店舗ありました。まして今回は、駅から一番遠い立地です。
しかし、ダイエーの集客力は八王子店、戸塚店、南越谷店で分かっていますし、今回も駐車場が完備されているので、他の2店舗とはお客様の層が違うだろうと考え、父は出店を決めました。
が、いつもなら売り場面積が40~50坪のところ、今回は20坪強と小さく、父は頭を悩ませました。
そこで父の出した結論は、普通のおもちゃ屋ではなく、電子ゲームを中心とした話題のおもちゃを集めた店にするということです。
当時は電子ゲームが流行し始めた時代。前年の昭和55年には、任天堂から液晶型携帯ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」が発売され、子どもから大人まで大人気でした。
こうした電子ゲームは商品が小さく単価も高いので、坪数が小さくても売り上げは他の店と同じように行くと判断しました。
父の読みは当たりました。昭和58年にはファミリーコンピューターが発売され6年後の平成1年にはゲームボーイも出ました。
ソフトもドンキーコング・スーパーマリオブラザーズ・ドラゴンクエスト・ファイナルファンタジー等、今でも人気のソフトが続々発売されました。
任天堂の協力店にもなっていたので、スーパーマリオのキャラクターが付いたファミコンクラブのテレホンカードを作り、お客様に配ったこともあります。
1枚だけ、私の手元にあります。今では貴重なお宝です。
なお、この頃の電子ゲーム・ファミコンの流行の変遷は、前回の記事に書きましたので、ご興味のある方はご覧ください。
昭和57年、本厚木の駅ビル「ミロード」に出店
昭和57(1982)年に小田急の駅ビルから声がかかり、初めて小田急線・本厚木駅ビルミロードに出店しました。
ここは40坪取れましたが、通路を挟んで約10坪・30坪に分かれた店でしたので10坪をファンシーショップの「マイハート」、30坪をおもちゃの「さくらトイス」としてオープンしました。
さくらトイスとして、駅ビルの出店は初めてです。当時私が担当していたマイハートがあるので、納品、開店準備、オープンと数日間泊まり掛けで手伝いにいきました。
駅ビルで全てがテナントなので、他店のおおよその売り上げがわかります。地下の肉屋さん、魚屋さんの売り上げが桁違いなのを知ってびっくりしました。やはり衣食住に関する店は売り上げが凄いと痛感しました。
次の写真は、オープンから約10年後の1994年、「トイジャーナル」誌の記事に載ったものです。この前年に改装し、玩具と雑貨の複合店になりました。
昭和57年、立川駅ビル「WILL」に出店
同じ57年に、立川駅ビルウィルにも約20坪でおもちゃ屋ではなくファンシーショップ「マイハート」をオープンしました。
マイハート初めての単独店でした。品揃えは私が自分でやりました。田無の「トント」でもう5年以上経験があり、売り上げも順調に伸びていたので自信もありましたが、上の階にキディランドやソニープラザがあったので、階の集客が少なく苦戦しました。
元々おもちゃ屋は百貨店や駅ビルの仕切りだと、宝飾・呉服・毛皮などの高級品の売り場の隅になることが多いです。
「マイハート」はもともと会社がおもちゃ屋なので、立川駅ビルでもサンリオさんと一緒に呉服・毛皮の階でした。夏など毛皮屋さんは売り上げ0円という日もありました。
昭和60(1985)年にシルバニアファミリーが発売されました。私としては、これはファンシーショップの商品ではなくおもちゃ屋の商品だなと思いながらも店に並べたら、他のグッズと共に売れていきました。
さくらトイス内のファンシー部門マイハートですが、単独店もできたので、も立川・子供の町・南越谷・本厚木と数がまとまり、我が社なりの大量仕入れやイベントができるようになりました。
先日、人形の「吉徳」の展示会で、この頃のぬいぐるみが展示されていました。どれも懐かしいですね。
店というものは、数年でいろいろな条件が変わる
さくらトイスは原宿から始まり、この年の立川まで23店舗を出店しましたが、一方で退店したお店もありました。
父の経営方針は「店というものは、数年で色々な条件が変わる生き物だ。牛から馬に乗り換えるように、店も出退店をしていかなければ会社が成り立たない」
そこで売り上げの悪くなった店は退店し、新しく出店をしていったので、店は常に15店舗から20店舗位を展開していました。
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