ジェンダー問題の認識の構造を明らかにする意識調査のニュース
奈良県が実施した県庁内の男女間のジェンダー問題についての意識調査の結果の一部が報じられた。その結果が中々に興味深い。
引用の調査結果を抜き出して示すと以下である。
「職場でのお茶出しや雑用は女性がすべきだという風土がある」
男性 9・3%
女性 29・4%
「公用車出張の際、運転は男性がするものだという雰囲気がある」
男性 28・2%
女性 8・8%
この2つ結果を「職場には性別役割分業の風土があるとの認識」に解釈し直したとき、役務提供側と役務享受側での風土に関する認識は、単純に考えれば以下のようになる。
解釈:職場には性別役割分業の風土がある
役務享受側 8.8-9.3% 振れ幅0.5%
役務提供側 28.2-29.4% 振れ幅1.2%
ザックリ言えば、自分または相手がジェンダーに基づいて役務提供していることに関して、役務享受側は性別に関わらず1割程度しか認識していない一方で、役務提供側は性別に関わらず3割程度が認識している。
この結果は、男女のどちらか一方だけが「旧来のジェンダー規範に基づく役務」を異性に押し付けているのではなく、男女が同じように異性に対して役務を押し付けているのであり、また押し付けられていることを示している。
そして、享受側・提供側という立場によって、ジェンダー規範に基づいて異性に押し付けた、あるいは異性から押し付けられた役務に対する認識が変わることもまた示している。それがジェンダー規範に基づく役務に関する享受側と提供側で生じている2割の齟齬である。自分に押し付けられた負担は容易に認識する一方で相手に押し付けている負担を認識するのは困難であるということが図らずも示された結果である。
自分の感覚を基準にして考えれば「自分の負担の方が大きい!」という結論になる。しかしそれは、「相手の痛みを直接感じることはできないが、自分の痛みは直接感じることができる」ために生じるバイアスである。
フェミニストとりわけ女性フェミニストは「女性の負担が男性の負担よりも大きい」と主張することが多い。さらに、男性負担軽視の態度をフェミニストが批判されても、「そういう批判こそが女性抑圧だ」やら「女性の負担を軽視するバックラッシュだ」と反発し、物事を客観視する態度自体が悪であると反論することがある。
しかし、ニュースで報じられた結果からも分かるように、ジェンダー問題には「相手の痛みは認識しにくい一方で、自分の痛みは容易に認識できる」という構造がある。ジェンダー問題のこの構造のもとで「相手の感覚を無視した、自分の感覚に基づく認識だけが正しい」とする態度は、現実の事態への認識を大きく歪ませるものになるのだ。
※ このニュースはyahoo!ニュースにも転載されているのだが、記事のタイトル故なのか、ヤフコメには「女性のお茶くみ負担だけ」を訴えるコメントがかなりある。この記事の着目すべきポイントは引用で示した部分であり、そこから窺え得る以下のことである。
男女が同じように異性に対して役務を押し付けているのであり、また押し付けられている
自分が押し付けられた負担は容易に認識する一方で、相手に押し付けている負担を認識するのは困難である
5/28の昼の時点で、「女性のお茶くみ負担だけ」を訴えるコメントが存在する一方で、「男性の運転負担だけ」を訴えるコメントはない。もちろん、男性の運転負担を訴えるコメントはあるのだが「女性だけでなく男性にも押し付けられている仕事あるじゃん」といった種類のコメントである。実にフェミニズムに毒された「女性様」の風潮である。とはいえ、化石のような旧弊のジェンダー規範そのままのコメントもあるので、男女でどっこいどっこいかもしれないが。
●女性負担だけを訴えるコメント
●旧弊のジェンダー規範を主張する化石コメント
●記事で報じられた意識調査の結果を踏まえたコメント
それにしても、この意識調査の結果の報告記事で、ジェンダー平等の価値観を前提にしながらなぜ上段のようなコメントができるのだろうか。ジェンダー平等の価値観を重視するなら、なぜ下段の種類のコメントにならないのか不思議でならない。ハッキリいって、時代遅れの価値観に基づく中段の化石コメントの方が、誠実な態度のコメントであるように私は思う。
因みに、類似のテーマを扱った過去のnote記事は以下である。
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