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夢・願望・プライド・ヴィジョン・目標

■夢と願望

 我々が夜眠るときに見るユメ、空想において膨らむユメ、それらのユメは現実世界とは異なる世界において我々をその世界の主人公にする。いや、主人公との表現は語弊がある。現実世界と同様に異世界でも「私」にすると言った方がより正確だ。そんな風にしてユメは現実世界とは異なる世界の存在を我々に理解させる機能がある。

 もちろん、ユメが見せる異世界は、現実世界との距離があり過ぎて荒唐無稽な世界もある。一方で、現実世界と同じような世界もある。つまり、現実世界と同じ物理法則が働く原理的には現実世界と同じ世界もまたユメの舞台となる。

 そんなユメの世界の出来事に対して、しばしば我々は「こうなったらいいなぁ」という気持ちを持つ。そんな気持ちのなかで当人に関するものに限定して本稿では「」と定義しよう(※今まで用いていたカタカナ表記の「ユメ」は空想の類の方の意味で用いていた)。

 さて、そういった夢は、全くのファンタジーな夢から現実的な夢まで様々だ。いくつか具体例を挙げてみよう。

 鳥のように空を飛びたい、痩せて綺麗になりたい、アンドロメダ星雲に行ってみたい、相対性理論を理解できるようになりたい、かめはめ波を撃ってみたい、素敵な人と恋愛したい、魔法使いになってみたい、パートナーと子供と大きな犬が居る生活したい、若返りたい、FIレーサーになりたい、漫画の主人公になりたい、サグラダファミリアみたいな建物を残したい、トンカツをいつでも食えるくらいのえら過ぎも貧乏すぎもしないちょうといいようになりたい、巨大企業のトップになりたい、専業主婦になりたい、そういった色々な人の様々な自分に関する夢がある。

 これらの夢の実現性に対する期待の強弱は個々人で違うだろう。更に、その「こうなったらいいなぁ」という夢に向けて努力するかどうかも個々人で異なる。また、個々人の内側においていくつもの夢があり、その夢毎にそれらは異なる。

 荒唐無稽なユメの中の夢ではなく、現実世界に生きる人間にとって将来的に見た場合に原理的に絶対に不可能ではない世界の夢について考えよう。すなわち、自分や周囲の行動・感情・思考が変わった、とんでもない幸運に恵まれた、信じられないぐらいに都合よく状況が推移したならば、ユメでみた事態が現実世界において実現する可能性を否定することができない種類の夢についてである。

 この原理的には実現の可能性を否定できないユメの世界における望ましい事態を指す概念を定義して、本稿ではそれを「願望」と呼ぼう。夢と願望の関係を図示すると以下になる。

図1:夢と願望の関係 (筆者作成)


■プライドとヴィジョン

 我々は幾つもの願望を抱える。言い換えると現実世界とは原理的には離れていない別の世界で実現している事態を望ましく感じて、将来の現実世界もそうであって欲しいと願う。

 そんな願望の中で実現を確信している願望がある。現時点での現実世界とは別の世界において成立している事態が、将来(あるいは現在の)現実世界の姿なのだと根拠の有無に関係なく確信していることがある。当人が予想した確実な未来世界の出来事かつ当人が望ましいと感じる出来事である。そんな主体自身の姿として現実世界において実現すると確信している願望を、本稿ではプライドと定義する。

 このとき、願望と現実世界との接続ルートを把握した未来図がヴィジョンと呼ばれるものである。ヴィジョンにおいて願望とそれが成立する未来世界がどのように繋がっているのか、(困難であることもあるが)現実的で妥当な経路が理解されている。ヴィジョンはその願望を現実にする経路の妥当性や経路を歩み切るという意志・熱意・意欲を根拠として、願望の実現を確信する。そして、経路の妥当性・意志の強さの大小で確信度合いは変わってくる。

 ただし、確信を持った願望、すなわちプライドは必ずしもヴィジョンとして現実世界と繋がっている訳ではない。現実世界との接続ルートが把握されていないプライドもあるのだ。現実世界との接続ルートを把握していないプライドは、願望を実現する経路の妥当性や実現のために努力する意志の有無とは関係なく、願望の実現を確信しているのである。現時点での現実世界とは別の未来世界において成立している事態を、根拠の有無に関係なく確信しているのだ。つまり、夢を実現する経路への認識や実現のために努力する意志が無い願望であってもプライドとなるのだ。

 以上で論じた願望とプライドとヴィジョンの関係を図示しておこう。

図2:願望・プライド・ヴィジョンの関係 (筆者作成)


■ヴィジョンを持つ人間の目標

 願望と現実世界との接続ルートを把握した未来図がヴィジョンと呼ばれることについて前節で指摘した。しかし、ヴィジョンは個人に対する展望だけでなく、もっと大きな対象、例えば会社や社会といった対象に対して用いることが多い。むしろ会社や企業に関するものであって、個人を対象とする概念ではないのではないか、とのイメージを持つ人もいるのではないかと思う。

 そこで、ヴィジョンと言うものは個人に対してもキチンと用いることが出来る概念であることを、明白に示す実例としてドジャースの大谷翔平選手が学生時代に作成したマンダラチャートを見てみよう。

 ここでまずシッカリと確認しておきたいことは、大谷選手のマンダラチャートの真ん中に記された「ドラ1 8球団」である。当時の大谷選手にとって、これは彼の夢であり、彼の願望であり、自分はそうなり得る人間であるとのプライドが表されたものだ。

 今の大谷選手の姿を見ていると当然のように思われるが、8球団からドラフト1位指名を受けてやると学生が言い出すことは、ともすれば大言壮語の類として受け止められるものだろう。しかし、彼はその強烈なプライドをヴィジョンの形にしているのだ。自らの夢が現実世界とどのように繋がっているかを理解し、自分であれば困難であるが強い意志と意欲を持てば踏破しきると確信し、ヴィジョンが指し示す経路上のポイントを目標に据え、その達成によって着実に夢に近づくのだ。

 ここで少し注意事項を述べておく。目標は操作的に定義されたものの方が望ましい。ただ、ヴィジョンに基づく目標設定が出来ているなら些細な問題だ。また、大谷選手のマンダラチャートに関しては操作的定義が為されていない目標のように見えて実はそうでもないのだ(後述)。

 この大谷選手の姿はヴィジョンを実現する企業の姿と同じである。ヴィジョンに従って企業が部門ごとに目標を割り振り、それを受けて各部門の部・課・係といった単位もまた設定された上位目標をブレイクダウンして中位目標とし、さらに中位目標を下位目標へとブレイクダウンして具体的にどのように実現していくかを明確にしていく。大谷選手のヴィジョンと企業のヴィジョンは全く同じ構造をしている。

 これは何も大谷選手のような誰が見ても偉業を成し遂げた個人の場合にだけ言えることではない。図2において例示したように、東京大学の合格を目指して計画を立てて学習している学生もそうである。受験日までに5教科それぞれについて何点くらいまで取れるように仕上げるか目標を設定する。各教科の出題傾向に合わせて各教科の分野毎の習熟度をどこまで上げるか、より具体的に下位目標として設定する。そして、いくつかの中間目標も設定し、進捗管理を行う。自分が合格する未来世界に対する確信を、最後まで踏破し切るという意志と熱意を持って現実的で妥当な経路によって持つとき、その学生はヴィジョンを持っている。もちろん、東京大学を目指す学生に限らず計画を立てて合格を目指す受験生なら程度の差異はあれ同様である。ただし、何となく合格できそうな学校を受験しようする学生は当てはまらない。

 また、「文章が上手になりたい」といった夢の持ち主の中にもヴィジョンの持ち主と言える人間がいる。「自分は優れた文章を書くことが(将来的には必ず)出来得る人間だ」との確信がある人間、すなわち自分の潜在的な文章能力に対するプライドがある人間が、毎週決まった曜日にはnoteに記事を投稿し、ライティング技術の本を読み、そこで書かれた内容の実践をどのようにするか決定し、それを目標の形に落とし込めば、それは「文章が上手になりたい」というヴィジョンの持ち主と言えるのだ。これはもちろん文章の上達を目指すことに限定されない。同じように行動している人間はヴィジョンを持っている。

 このように、ヴィジョンと目標の間には密接な関係がある。


■ヴィジョンを持たない人間の目標

 ヴィジョンを持たない人間は夢を実現するための目標を適切に設定できない。これはヴィジョンの定義から導き出せることだ。夢を実現する現実的な経路を理解し、その経路を踏破する熱意の持ち主が持つ夢がヴィジョンだからだ。この節の冒頭の文は所謂トートロジーに過ぎず、単にそれが尤もらしく聞こえているに過ぎない。

 しかし、このことが自明に感じられない人も多いかもしれない。そこで、このことについて説明をしてみよう。

 まず、現実世界において原理的に不可能な夢がヴィジョンとなり得るか考えよう。察しの良い人にとっては図1と図2で示した包含関係から成り立たないのは自明な話で無駄話になるかもしれないが解説しよう。

 例えば、「かめはめ波を撃ってみたい」という夢について考えよう。かめはめ波を撃つことは現実世界において原理的に不可能である。そのことは取りも直さず、かめはめ波を撃つ夢を実現する経路が現実世界と繋がっていないことを意味する。ヴィジョンとは夢が成り立つ世界と現実世界とを結ぶ経路を理解してその経路を使って実現の手筈を整えるものが持つ夢だ。しかし、かめはめ波を撃つ夢にはその経路が存在しない。それゆえ、どうやっても夢と現実世界を結びつける経路を認識できないのだから、ヴィジョンの前提条件を満たすことが出来ない。だから、「かめはめ波を撃ってみたい」という、現実世界において原理的に不可能な夢はヴィジョンに成り得ないのだ。

 次に、願望としては持っているがヴィジョンとして持っていない者がもつ夢だ。この者たちは願望が叶うことを強く願っているかもしれない。しかし、この者たちは願望を叶える現実的で妥当な経路で努力していないのだ。更に言えば、努力しているかどうかすら不明である。ヴィジョンを持っていないということは、努力が夢の実現に結びつく経路での努力をしていないか、努力する意欲を持っていないということだ。したがって、願望ではあるがヴィジョンではない夢に関しては、目標の方向性を適切に設定できないか、目標の達成水準を適切に設定できないのだ。

 最後に、プライドとしての夢であるが、ヴィジョンではない夢について見てみよう。プライドとして夢を持っているということは、根拠の有無にかかわらず現実世界と夢が叶う世界が結びついていると確信している状態にあるということだ。ヴィジョンを持っている場合は、夢が叶う世界と現実世界とを結びつける正しい経路を理解し、その経路を踏破する意欲がある。しかし、ヴィジョンを持たない場合は、正しい経路を知らないために適切な方向性で目標を設定できないか、意欲に欠けるために目標の達成水準を適切に設定できない。つまり、ヴィジョンを持たない願望を同じなのだ。違いは「無根拠に確信しているかどうか」の違いに過ぎない。しかし、そんな無根拠の確信は夢の実現にも適切な目標設定にも大して関係無いのだ。


■目標の適切さ

 適切な目標とはどんな目標か。それを一言でいえば以下になる。

 「簡単過ぎもせず難しすぎもしない目標

 言い換えると、しっかり努力すれば十分に達成できる目標が適切な目標である。では不適切な目標とはどんな目標か。それを考えよう。

 さて、努力せずとも達成できる目標は前回のnote記事でも述べたように目標足り得ない(註)。

 また逆に努力しても達成できない目標もまた目標足り得ない。

 なぜなら、夢の実現への寄与で見たときに目標の達成と未達で差異が無くなってしまうからだ。目標の水準に達しても達しなくても夢の実現には関係しない、となったときになぜそのような水準を目指す必要があるだろうか。また逆に、努力しても達成できない水準を満たさなければ夢が実現しないのであれば、その経路は現実世界と夢が叶う世界とが結びつく経路ではない。つまり、努力しても達成できない目標を設定した場合、それは無駄な努力を自らに強いていることに他ならない。

 ここで日本社会に横行している悪しき慣行である、「無理をすれば達成できる目標」の設定についても考えよう。日本社会の悪しき目標設定の慣行は、企業や政府などの組織に蔓延しているだけでなく、個人の目標設定においても歪みとして現れている。したがって、この目標設定の不適切さについても考える必要がある。

 まず、「無理をすれば達成できる目標」というのは、「無理をしている」という段階で目標の達成率が下がっている。目標の達成と夢の実現が結びついているのであれば、達成率の低い目標に固執することで夢が叶う確率を下げるようでは本末転倒である。夢の実現こそが大切なのであって、目標達成はその手段に過ぎない。

 しかし、その無理をしなければならない経路しか、夢を実現する経路がどうやっても見つからなかった場合はどうか。

 このときは、トレードオフの問題なので判断が一概には言えなくなる。無理をする経路は夢が叶う確率が低いという問題だけでない。「無理をする」ということで失われる「夢が叶う」以外の損失があるのだ。その無理により発生する損失と夢の実現による利得を比較衡量しなければならない。無理をすれば達成できる目標」というものは、夢が叶う代償を考慮に入れてなお目標達成すべきかどうかを考えなければ、その目標の適切さは判断できない。

 しかし、得てして「無理をすれば達成できる目標」を設定するとき、その無理によって何が失われるのかについて無頓着である場合がかなり多い。つまり、適切かどうかは偶然に任せて目標を設定する行為が横行している。


■自信とプライド

※『山月記』を用いて説明する内容のnote記事を書いており、自信とプライド(=自尊心)の関係を論じておく必要があるために論じる。実はそのnote記事のスピンオフが本稿である。ただし、これから書こうとする内容とほぼ同じ内容を書いた人が居り、しかも最近その人の文章を私が読んだために非常に書きにくいのだが、もともと私も同様に考えていたために書こうと思う。引用するのが怖いんです

 さて、「自信」とは、自分の能力・知識・信念等への信頼のことだ。この自信に関する信頼に関して、根拠のある信頼と無根拠の信頼の二種類がある。つまり、自信には根拠の有る自信と根拠のない自信がある。略称として前者を「自信Ⅰ」、後者を「自信Ⅱ」としよう。

 自信に限った話でもないのだが根拠の有無が問題になるときは、それに対する疑いが持たれたときだ。能力がないのではないか、その知識は正しくないのではないか、その信念は正当ではないのではないかといった嫌疑がかけられている状況になっている場合に根拠の有無が問題になる。

 当然、そんな嫌疑は不愉快なものだ。そんな嫌疑がかけられても、自分の能力は十分であり、自分の知識は正しいのであり、自分の信念は正当であると原則的に自信を持つ人間は信じている。なぜなら、それが自信を持つという定義だからだ。もし、自分もまた嫌疑を共有するのであれば、その人は持っていた自信を喪失したのであり、もはや自信を持っている人間とは言えなくなる。

 現実世界において自信を持つ人間が自分が持つ能力・知識・信念等への嫌疑をかけられたとき、そんな嫌疑が無い世界に復帰することへの願望を持つ。つまり「能力無いんじゃない?その知識間違っているんじゃない?その信念おかしいんじゃない?」と疑われている世界から「能力あるじゃん、その知識正しいじゃん、その信念正しい」と思われる世界になることを望む。

 このとき、現実的で妥当な経路で二つの世界を結びつけることのできる自信が自信Ⅰであり、そのような経路についての認識を持たない自信が自信Ⅱである。つまり、自信Ⅰはこれまでの議論のヴィジョンと似た性質を持つものであり、自信Ⅱはヴィジョンを欠いたプライドと似た性質を持つものである。

 自信Ⅰやヴィジョンは、失敗経験などによって自信を持つ正当性に嫌疑がかけられたとしても現実的で妥当な経路によって自信を持つことが正当である世界に復帰することができる。一方、自信Ⅱやヴィジョンを欠いたプライドは、失敗経験などによって自信を持つ正当性に嫌疑がかけられたとき現実的で妥当な経路を認識していないので自信を持つことが正当である世界に復帰することが難しい。

 このことは、目標を適切に設定できるヴィジョンを持たないプライドだけの人間が、失敗する可能性のある行動を取ることを忌避する原因となるのだ。


■大谷選手の「方向性としての目標」

 「方向性としての目標」という種類の目標についてこれから述べよう。

 目標として「方向性としての目標」が掲げられた場合は操作的に定義できる下位目標が設定されなければならない。つまり、目標とされた方向に対してどれだけ正確にその方向を向いたかという形の下位目標か、目標された対象にどれだけ近づいたかという量で示される下位目標が別途設定されなければならない。もしも、この下位目標が設定されていないのであれば、それは目標足り得ない。

 ここで先に挙げた大谷選手のマンダラチャートに注目しよう。彼のマンダラチャートの目標には「方向性としての目標」が存在する。真ん中の大マスに書かれた内容は操作的に定義された目標もあるものの、方向性としての目標もある。その中でも注目したいのは「運」である。

 運を評価する、これは非常に難しい。「いやいや確率として評価できるじゃないか」と主張する人が居るかもしれない。しかし、確率として評価できるようなものは「リスク」なのだ。確かにリスクは評価可能である。しかし、「運」が関係するものには、かつてノーベル経済学賞を受けたフランク・ナイトが指摘したナイト流不確実性と呼ばれるものが存在する。そのナイト流不確実性とは、事前にそれが起こる確率すら予測できない不確実性を指す。このナイト流不確実性が「運」に関係してくるのだから、どうやって「運」が上がったのか下がったのか評価すればよいのか分からないと言ってしまってもよいだろう。

 上記のナイト流不確実性に関して「難し気な概念だして煙に巻いていませんかね?」という疑問を抱く人が居るかもしれない。そこで、今回の大谷選手を巡るギャンブル騒動で少し説明しよう。

 大谷選手が公私にわたって信頼していた元通訳の水原一平氏が、大谷選手の銀行口座から金を盗んでギャンブルにつぎ込んだとされる。事前にこの事件が起こる確率を適切に計算できるだろうか。何に着目してどう評価すれば事件の発生確率として妥当な評価になるだろうか。あるいは超人的な計量経済学者なら妥当に確率を算出できるのかもしれない。しかし、そんな存在するかも疑わしい例外的な超人を基準にして一般的に敷衍する主張は、それこそ「その超人が目標設定者としている確率を示してもらえませんかね?」とブーメランとして投げ返してよい主張だ。

 そんな「運」であるにも拘らず、大谷選手は適切といってよい形で下位目標を設定している。

 プレーとの関係で分かり易いのは「審判さんへの態度」だろう。

 どちらかであったか微妙なクロスプレー(※)となったとき、審判とて人間であるので好感を持つ選手に気を付けていても有利な判断をしてしまうだろう。これが、プレーにおいて引き付ける運である。この運に関しては恐らく確率計算が可能だ。クロスプレーにおいて大谷選手に有利な判定だったか不利な判定だったかを集計し50:50からの距離を算出すればよい。ただし、そのようなプレー運を直接的な下位目標とするのではなく、人間として審判に対して失礼な態度を取らなかったか、好感を持てる態度を取ったかという観察可能な形で下位目標を設定し、「運(をよくする)」という方向性としての目標を実効的なものにしているのである。

 また、今回の水原氏のギャンブル騒動に関しても、通訳であった水原氏がギャンブルにのめり込んだこと自体は大谷選手にとって不運であったと言えるだろう。しかし、その後にアメリカの捜査当局が「大谷は水原を隠れ蓑にしてギャンブルをしていたんだろう」との予断を持たず真摯に捜査したのは、「あいさつ・ゴミ拾い・応援される人間になる」といった行動で培った大谷の人間性への信頼が大きかったのではないかと私個人は感じている。そして、それらの行動は観察可能であり、そんな観察可能な行動を「運(をよくする)」という上位目標に対する下位目標とすることで、彼は「捜査当局からの好意的な捜査を引き出す」という運を引き寄せたのだと私は思っている。もしも、かつてのチームメイトの中田翔選手がアメリカで類似の立場に立たされたのならば、大谷選手が獲得した「捜査当局からの好意的な捜査を引き出す」という運を中田選手は引き寄せることはできないだろうとも私は思う。

 

※クロスプレーも操作的定義が可能だ。例えば、「アウトとセーフの判断を0.2秒以内の出来事で判断しなければならないプレーをクロスプレーという」といった定義をすればよい。一例を挙げれば、一塁を走者が踏んだ出来事とベースに足をつけた状態で一塁手が送球されたボールをキャッチした出来事の間の時間差が0.2秒以内のようなプレーをクロスプレーと判定できるようにする定義だ。


前回記事はこちら。




 ※別記事を書いていたら、またもやスピンオフさせるべき部分が出てきた。本稿はそうやってスピンオフさせた記事の第2弾である。









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