「女らしさはつくられたものだが、男らしさは生まれつき」という欺瞞
フェミニストの言説における「社会における結果としての男女差の原因に関する認識枠組み」に関して、「男性が劣位にあるのは男性の生物学的要因に基づき、女性が劣位にあるのは女性の社会学的要因に基づく」という認識枠組みがしばしば見受けられる。
直近に批判していた西田梨沙氏についても彼女のジェンダー問題に関連する一群の記事を読めば、上述の認識枠組みを持っていることが窺える。また、先に「しばしば見受けられる」と述べたように何もそれは西田氏一人の話ではない。
そのことに関して以下のnote記事を取り上げよう。ただし、当該note記事はアメリカのフェミニストの著書の紹介記事であるので、内容はアメリカ社会の事情に関するものである。
また当該記事は『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』(レイチェル・ギーザ著、冨田直子訳)の序章の全文を載せた記事であるでその点にも留意する必要がある。
さて、当該note記事の冒頭で、『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』のエッセンスとも言える部分が紹介されている。以下に引用してみよう。
この抜き出されたエッセンスからも窺えるように、「男性が劣位にあるのは男性の生物学的要因に基づき、女性が劣位にあるのは女性の社会学的要因に基づく」という認識枠組みが、フェミニズムの風潮に塗れたアメリカ社会においても実に強固に存在していることが分かる。
また、以下のエピソードも象徴的だ。
アメリカにおいて社会風刺を行うコメディアンが「娘に対してはいつも自尊心をできるだけ育てよう(中略)一方で息子はというと(中略)自尊心を損なってあげる」というジョークを飛ばす。この意味が理解できるだろうか。この手の社会を風刺したジョークというものは、もともと風刺されるような社会の風潮が存在しており、その風潮を戯画化してジョークに仕立て上げるのだ。
このことは有名なエスニックジョークを思い浮かべればよい。
上記のエスニックジョークについて他国の社会については言及を避けるとしても、日本に関して「皆さん飛び込んでいます」と揶揄されるような画一性が日本人および日本社会に存在しないならば、このジョークを日本人が聞いたとしても面白くもなんともない。だが、このエスニックジョークを日本人が聞いたときに「あぁ、日本人アルアルだよなぁ」と感じるからこそ当ジョークで日本人に笑いが生まれるのだ。
また、日本社会を戯画化した「徒競走でお手々繋いで皆でゴール」という都市伝説に対して、日本社会に都市伝説で揶揄されるような画一性が一切なければ、都市伝説で象徴される日本社会を嘲笑ないしは自省するといった出来事は起こらない。
この辺りの構造は、引用において紹介されたエルヴィラ・カートのジョークも同じなのだ。
アメリカ社会において、「女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てるという風潮」が存在しているからこそ、エルヴィラ・カートのジョークはアメリカ人にとってスタンダップ・コメディの笑いを生むジョークとして成立している。
だが、よくよく思い返して欲しい。上記の風潮をミラーリング(=男女の立場を入れ替えてみること)した風潮は、フェミニズムが散々非難してきたものではなかったか。「女性の自尊心を性別によって無根拠に貶め、男性の自尊心を性別によって無根拠に高める風潮」こそを男尊女卑として糾弾してきたのではなかったか。そしてその風潮に基づく男性優位女性劣位の社会の結果こそ、ジェンダー差別として解消すべきものとしてフェミニズムは取り上げてきたのではなかったか。
であるにも拘らず、アメリカ社会においては「女らしさはつくられたものだが、男らしさは生まれつき」という考え方に基づいて、男性差別的状況を黙殺している。
そして、そんなアメリカの状況をジェンダー平等が進んだ社会として、日本のフェミニスト達は崇めたて「見ろ。アメリカと比べてなんと日本はジェンダー平等に関して遅れた後進国か!」と言い立てる。
だが、アメリカ社会における「女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てるという風潮」の結果が直接に現れると見做せる、教育の分野において巨大なジェンダーギャップが現れていて(註1)、アメリカ社会が到底ジェンダー平等社会とは言いかねる状態になっている。
先に挙げたDU BOOCKSのnote記事に近い日付(といっても2年も開きがある)のアメリカの高等教育に関する記事を取り上げて、アメリカの高等教育に関しては女性が男性を上回りつつあることを確認しよう(註2)。
この結果としてのジェンダーギャップを提示しても、「社会によって構築されたジェンダー別の扱いの差=女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てるというジェンダー差」という要因の影響を認めないご都合主義フェミニストも少なくないだろう。
何といっても私がこれまで示した「大学在籍者の男女差」と「スタンダップ・コメディのジョークにあらわれた風潮」は、言わば「女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てる」という本体が通り過ぎた後に現れる曳き波のようなものだから、言い逃れができなくもない。
そこで「女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てる」というジェンダー差のある行動規範が明確な形をとって現れていた、アメリカの大学に数多く存在していてようやく廃止されつつある女性優遇制度に関する事情について書かれた、先の「アメリカの大学在籍者の男女差」について書かれた記事とさほど時間差のない(とはいっても一年ほど後の)記事を紹介しよう。
全米各地の大学にはペリー教授の訴えを受けて廃止されつつあるものの女性向けプログラムや奨学金、表彰制度が存在していた(註3)。すなわち、女性に対してだけ、頑張るためのプログラムが与えられ、優秀な成績を修めれば奨学金が得られ、表彰される制度が存在していたわけである。これはとりもなおさず、「女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てる」というジェンダー差のある規範が実体化したものである。
それでもなお言い逃れをするフェミニストは居るかもしれない。「それはかつて、大学教育に関して女性が不利な状況に置かれていたがゆえに設けられた制度なのだから、性差別的状況を是正するための制度なのだ」と世迷い事をフェミニストは言い立てるかもしれない。
だが、そんな主張に対して正当性が与えられるのは男女比が逆転するまでの話である。問題が是正される以上に逆方向に機能し始めたかつての是正措置の現在の有様を擁護するのは、既得権益を奪われまいと足掻く特権身分の人間の行動だ。男性に対して「男性は何だかんだと言い訳をして男性特権という既得権益を手放さない」と散々糾弾していた行動と、まさしく同型の行動を取っている。
それでもなお「かつての男女の立場の強弱を背景に設けられた制度であること」を理由にして、このアメリカの大学にごく最近まで存在していた女性特権の特権性を否定するフェミニストがいるかもしれない。
そんなフェミニストは、かつて高校世界史で習ったであろうオスマン帝国の「カピチュレーション」を思い起こせばよい。忘れてしまった人もいるかもしれないので、いくつかの事典等の説明を引用しよう。
つまり、当初は「強い側」が「弱い側」に与えた庇護であったものが、その強弱関係が逆転してなお維持され、不当な既得権益となった世界史的な制度がカピチュレーションである。小学校時代に習ったであろう、江戸時代に日本とアメリカが結んだ不平等条約である日米修好通商条約の原型である。
つまり、制度が設けられた当初の事情においてはそれが不平等ないしは不公平でなくとも、時間経過によって事情が変化した場合には不平等ないしは不公平となることは十分にあり得る話なのだ。
オスマン帝国のカピチュレーションという世界史的経験は、制度が作られた当初の状況においては「弱者保護を目的とした制度」であっても時間経過によって「強者の特権となる制度」に転化する現象が生じることを、我々に教えてくれる。
つまり、アメリカ社会における大学教育の分野では、かつての設置目的がなんであれ女性特権として機能する諸制度が、最近になって廃止されつつあつものの確実に存在していたのである。
以上のことから分かるように、「女の子は自尊心を高めるように育て、男の子は自尊心を損なうように育てる風潮」「女性向けプログラムや奨学金、表彰制度といった女性特権として機能する諸制度」は、アメリカ社会において社会的に構築された教育分野におけるジェンダー差を齎す存在である。
そういった事情があってさえ、フェミニズムにかぶれた一般的な連中の認識は、冒頭に引用した認識なのである。
まったくもって「男性が劣位にあるのは男性の生物学的要因に基づき、女性が劣位にあるのは女性の社会学的要因に基づく」という認識枠組みの差別性に関して鈍感であるフェミニストが腐るほど居る。
註
註1、フェミニストのご都合主義を反映して「女性不利な場合のギャップは示しても、男性不利な場合のギャップは一切示さない」という性質を持った、あのジェンダーギャップ指数の構成項目として取り上げている教育分野において、男性不利なジェンダーギャップが存在している(※ジェンダーギャップ指数は、女性不利な場合は1未満の数値になるが、男性不利な場合は数値の上限が1.000のために示すことが出来ない)。
註2 ジェンダーギャップ指数における高等教育就学率に関しては、修士課程や博士課程に進学することが多い理系(いわゆるSTEM分野)には男子学生が多く女子学生が少ない一方、修士課程や博士課程に進学することが少ない文系には女性学生が多く相対的に男子学生が少ないため、修士課程や博士課程に在籍する男女比では学部における男女比ほどには女性優勢ではない。
註3 またこれ以外にも、アメリカの大学に関して、学生の困りごとを取り扱う救済機関の設置状況として、女性センターは数多く存在していても男性センターは極めて少ないという男女差のある状況が存在している。この状況について、本文で紹介したアメリカの大学事情の2つの記事と同時期の2021年9月に書かれたクーリエ・ジャパンの「学位のジェンダー格差がアメリカで過去最大に “非大卒男性”が直面する『絶望的な社会構造』」という記事もあったのだが、報じられた当初とは異なって現在は無料開放しておらず有料閲覧のみが可能である。
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