毒親育ちで自死遺族になったので水商売で働いてみた話②
前回の記事はコチラ🔻
前回に続き、大学や大学院関連の話を再開する。
ひとつ、物凄く恐ろしいことを思い出したのだ。
それは、父が「国立大なら全国何処でも好きなところへ進学していい」と言ったので、弟は興味があり確実に合格する大学を受験すると伝えたら、「お前ならもっもい偏差値の高いところも受験出来るから」という理由で約束を反故にされたのだ。
更に、滑り止めの私立大学も受験当事者の弟ではなく父が全部勝手に決めてしまった。
結果、東京理科大、同志社大学等、多くの人が知っているであろう難関大学ばかりというか、難関大学しかなかった。
そしてこれらの大学に合格する可能性もあったが、不合格になる可能性もあった。
滑り止めとは本来、確実に、余程何かイレギュラーが無い限り合格するから滑り止めなのであって、合格するかしないのかがあまりに不確定では滑り止めとして機能しない。
このとき、歳を重ねるにつれて大人しくなっていった弟は、子供の頃のときぶりなのかと思うくらい久し振りに感情を大爆発させた。
リビングで泣きながら怒りダイニングテーブルの椅子を床に叩きつけたか振り回したか、記憶がうろ覚えだけど確か床に叩きつけた気がする。
ただ、父のことが怖いのか、家に私と弟と母しかいないときにやった。
そして、この出来事で何が何でも謝らない父が、私の人生において初めて弟に謝ったのだ。
このときの出来事は本当に弟にはプレッシャーだったらしく、合否判定の日、弟は自分でPCから結果を確認出来ず母が代わりに確認した。
結果、受験する大学の偏差値を上げ、興味を持ってる学部のある国立大に合格した。
第一志望に合格したのだ。
大学生活は順調だったが、卒業と同時に変化か訪れた。
友達の中で就職する組と大学院に進学組で別れた。
大学院への進学組の中から、更に細かく、研究室ごとに別れる。
ここで弟は、多分だけど一人になった。
友達とも疎遠になったんだと思う。
大学院に進学した弟には就活と卒論が待っていた。
どんな人見知りの子も家族相手に人見知りをすることは基本的には、あくまで基本的には無いと思うのだが、その例に漏れず弟も私とはすらすら話せた。
しかし、研究室の教授だか助教授とは上手く話せない。
上手く話せないということは頼れない。
この頃、父との電話で「勉強にはついていける。でも、人に話しかけるのが苦手だから頼れない」的な悩みを吐露した。
それでも、現実は容赦無くやってくる。
進まない卒論。それと並行してやらなければならない就活。
生前、私は弟に謝ったことがある。
弟は一流大学に進学したのに、私は三流大学を卒業した後、当時フリーターをしていた。
私は私を恥ずかしく思ったし、弟だって誰かから「お姉さんは何をしているの?」と聞かれて「フリーターです。定職に就いていません」なんて説明するのは恥ずかしいだろう。
だから、「駄目な姉でごめん」と謝ったのだが、そのときのメールの返信は、「それでいったら僕はコミュ症だから面接で詰むだろうし、それに公務員試験もあるし、女なら結婚もあるから大丈夫ですよ!(^ー^)」みたいな内容だった。
この国は男女平等を謳いつつも、まだまだ男性が大黒柱であるのが当然という風潮は強い。
就活で内定を取れなくても、それが男性と女性では話が変わってくる(差別的な内容になりますが、ご理解してもらえると助かります)。
私は正直なところ、弟が女性だったら自殺なんてしないで済んだのでは? と、すら思った。
憶測になるが、大学院に進学したのも就活を先延ばしにしたかったのでは? と思ってしまう(100%それだけが理由とは流石に思えないが)。
自殺の前日、弟は父と電話をしており、そのときに父は「また逃げるのか」と言ったことを知ったのは、弟が亡くなった後の話だ。
遺品のUSBの中には卒論が残っており、4月が最終更新月だった。
弟は、自殺する二ヶ月前まで卒論と向き合っていた。
その後も、USBを使っていないだけで卒論と向き合っていたかもしれないし、無気力になって毎日寝ていたか、この空白の二ヶ月間について知る者はこの世に居ない。
弟の自殺が判明したときの記事はコチラ🔻
弟の死後の続きは、又別の機会に。
近日中に書く予定です。
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