辻征夫『私の現代詩入門』のとある章で「実と夢」という問題にぶつかる

辻征夫は、私の最も敬愛する詩人のひとりですが、詩論は読んだことはありませんでした。たまたま古本屋さんで見つけて、読んでみた。私はかつて、詩など読んだこともまして書こうなどと思いもしなかった、という方々相手に,詩を読み書くという講座を13年運営し、大概の詩人の人と作品解題は、会員の皆さんと一緒にやってきた。なのでここに取り上げられた詩人とその作品は殆ど知っていましたし、関係する論文も随分読んだので、日本文学の上に占める意味もおおよそは分かっています。それでも抜けていた、というより抜かした詩人がいた。堀口大学。なぜなら苦手だったからです。もちろん知らぬ人のない翻訳詩集『月下の一群』を嘆賞すること人後に落ちないと自負していますが、詩作品は、敬遠していました。強烈なエロスの作品が最も性に合わなかったのですが、作品に生活や人生や人間が見えない、やはりエリート階級出身ゆえか、と思っていました。大学自身が「私の詩(うた)の中に真実がないといふので/人たちは私の詩を好まない/私の詩は私の夢なのだが/そして夢ばっかりが私の真実なのだが」と嘆いていると、この書にありました。さて、と思ったものです。立原道造の詩が出発点だったという詩人は多い、が、甘すぎ、物語的すぎ、という人もいる。中原中也に傾倒している詩人も多いが、どこがいいのか分からない、という人もいます。私が峯沢典子という初見参の詩人の『微熱期』に全く感動できず、むしろこんな世界に揺蕩っていられる人は恵まれた人なんだろうな、程度の感想しかこの、多くの賞賛と賞を受けた詩集に抱けず、悩んだものです。田中冬二の『青い夜道』と、文化的に東西対称なだけで、同じものを感じたのです。すなわち、実がない。道具立てがそろっているが、ここに真実はない、夢の世界と感じたのだと思います。堀口大学の詩を敬遠していたのも同じ理由だったのでしょう。つまりは、読む人の嗜好の問題、相性の問題だと思いついたことです。いかに名詩と言われても自分の本質と合わない詩は心に響かない。嘘っぽく感じる、無縁の作品という自分の感性も、あり得るのだ、と思ったことです。そして、「夢こそが私の真実」という言葉に深くうなづいたのです。