見出し画像

幼児期の回想

私は昭和50年代後半の生まれです。
出生地は、大都市近郊の地方都市といったところでしょうか。
決して都会ではないですが、かと言って田舎でもない。
電車は時刻表を確認する必要がなかったし、新幹線も身近にありました。
日常生活は地元で十分であるし、少し良いものを求めれば30分から1時間圏内で大抵のものは手に入るし経験できる。そんな地域に生まれました。

実家は所謂サラリーマン家庭でした。父親は外で働き、母親が専業主婦という、昭和後期から平成初期にかけて多く見られた核家族の一般像ではないでしょうか。
ただ、その暮らしぶりは、子どもながらにも感じていましたが、どちらかと言うと裕福な方だったと思います。
両親は実業系の高校を出ており、高校を卒業と同時に社会に出て働き始めたと言います。
そのような家庭の長男として生まれました。

実際に記憶として残っているのは幼稚園の年中くらいからですが、バス通園をしており、市内の普通の私立幼稚園に通っていました。
どのような幼稚園児だったか。。。あまり思い出せないのですが、目立つタイプではなかったと思います。言葉を覚えるのは比較的早かったようですが、体格は小さかったですし、スポーツもできる方ではなかったと思います。友達と平和に遊んでいるような、ごく普通の幼稚園児だったのではないでしょうか。

そして、幼稚園以外の世界では、英会話とスイミングを習っていました。
英会話に関しては毎週教室に通い、幼くして結構英語を喋っていた記憶があります。受験英語では苦手意識の強い教科に成り下がっていましたが。
また、スイミングについては、根性をつけるとかいう理由で通わされていました。最初は水が怖くて毎回大泣きしていたのを今でも覚えています。しかし、いつの間にか泳げるようになり、後に小学校では水泳が得意な人になっていました。

幼児期はこのように幼稚園に3年間通い、どこにでもいたような幼稚園児の生活を送っていたのだと思います。

さて冒頭でも述べましたが、
私は地方都市のサラリーマン家庭の生まれです。
ただ、この頃から記憶にあるのは、母親が教育熱心であったということです。
後にこの教育熱心というものが、私の人生に大きな影響を与えるわけです。もちろん良い影響も悪い影響もです。

結論から言うと、
当然良い影響もあったため、今は社会的地位を手に入れ、経済的にも余裕のある生活を送ることができています。
しかし、そこに至るまでの苦悩も相当なものでした。後悔もたくさんあります。

今回は特に当たり障りのない幼児期ですが、
これから小学生・中学生・高校生時代を回想することで、色々と考察すべき点が浮き彫りとなってくると思います。
少しずつ、時に脱線しながら綴っていきたいと思います。

日本がまだまだバブルに沸いていた頃、海外では湾岸戦争やユーゴスラビア紛争が勃発し、ソビエト連邦が崩壊した年。
そんな社会科の教科書でよく目にした時代背景。
私は幼稚園を卒園し、地元の公立小学校に進学することになります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?