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p.3|鯨が運んできたもの〜〈向こうがわ〉を眺める

最近、岩手県大槌町の伝承を思い出していた。

"大槌町に「鯨山」という山がある。かつてこの辺りに、疫病が発生したことがあった。大槌の浜に打ち上がった鯨を食べた人が元気になったから、周辺に住む人たちが鯨を求めてこの山を目印に集まってきたことに由来する。また、鯨が大漁だった時に人々がこの山に集まったとも言われる。"(参考①、他)

数年前、鯨山に登ってみた。山頂から湾が見渡せた。山頂の社には石作りの「権現様」(獅子頭)がいくつも祀られていた。海沿いから見上げるとまわりの山々より高く目立つ鯨山は、おそらくこの辺りの漁師たちが「山ばかり」に使ってきたのではないだろうか。海上で自分の位置を知るために山を目印として使う技術だ。

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[写真:鯨山山頂からの眺め]

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[写真:鯨山山頂の社と権現様]

宮城県の気仙沼市の漁村では、こんな話が記録されている。

"ある家の子どもが風邪か麻疹に罹り、なかなか治らなかった。すると、堰の奥にカツオが上がってきた。そのカツオを拾ってくると子どもの病気が治った。そうしたカツオを「寄り物」と言った。"

この話を聞いた民俗学者の川島秀一氏は、「『寄り物』を拾える人は運が良い人であり、拾うことによって、運が良くなることを言い表している」と書いている。「寄り物」にはカツオだけでなく、網にかかった石、流木、亀、鯨なども含まれる。鯨はまた「エビス」とも呼ばれ、地域によって豊漁の神として崇められてきた。(参考②)

気仙沼の漁村の話では、そのカツオを食べたとは書かれていない。大槌町の鯨は、その肉が栄養もしくは薬となって病人を救ったかもしれないが、幸運をもたらす「寄り物」でもあったのかもしれない。巨大な「寄り物」の分配を求めて人々が集まったのかも、と。

西日本には、また違う鯨の話が残っている。

"宝暦8年(1758年)のこと。三重県、紀州の白浦の常林寺の住職が不思議な夢を見た。夢の中に美しい女が現れ、自分は竜神に仕える懐妊中の鯨であると言う。明日白浦の沖を通るが、捕鯨を行う鯨組が自分を獲らぬよう説得してほしいとその女は住職に頼む。しかし住職は鯨組にこのことを伝えず、翌日の夕方鯨組が獲った鯨は子持ちのセミクジラであった。その後、浦では病人が続発し多くの死者が出たことから、鯨の慰霊祭が行われ供養塔が建てられた。"(参考③)

子を持つ鯨を獲ることは、多くの土地や文化でも、現代のルールでも禁じられている。しかし、実際に海中にいる子持ちの鯨をそれと見分けることは難しいという。白浦は、警告があったにもかかわらず子持ちの鯨を獲ったために祟られた。

浜辺に偶然打ち上がる漂着鯨と、捕鯨で殺された鯨。人と鯨の関わりとしては正反対の出来事により、一方の土地は幸運を授かり、もう一方の土地には悲運がもたらされた。紀州白浦の鯨は「祟り」として病と死をもたらした。それは、鯨がそれほどの力を持つ存在であることを示唆する。こうした伝承が残る漁村は、常に「海」という外界に面している。そこでの生活には常に外のものが入り込む。それが幸運となるか、悲運となるか。すべては人々の行いによるのかもしれない。

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[写真:和歌山県太地町の鯨組が使った鯨舟の意匠(再現)]


私が昨年から訪れている米国ニューヨーク州ロングアイランドのシネコック・インディアンの人たちは、近年浜辺に漂着する鯨が増えたことから、鯨の儀式を復活させている。その儀式を中心的に担う知人はこんな話をしていた。

"シネコック・インディアンは伝統的に、鯨のヒレや尻尾を焼き、捧げる儀式を行ってきた。それは、「南に住む精霊(spirit)」へ捧げるものなんだ。僕たちはそれを「向こうがわの精霊」と呼んでいる。入植者たちはその存在を「悪魔」と呼んだけど、もともと僕たちは「悪魔」や「地獄」という言葉に相当するものを持たない。それは「バランス、均衡の精霊」であるんだ。良い精霊がいる一方で、不幸を引き起こすかもしれない精霊がいるということ。"

人と鯨は、陸と海という全く異なる世界に生きている。鯨の漂着という現象は、そのふたつの世界を結びつけるかのように起きてきた。豊漁の神であり、何らかの使者であり、自分たちと精霊とを結びつけるものであり、人間社会への野生の介入でもある。それ自体が食料や資源とも、研究材料ともなる。時と場所によっては、厄介な死骸として処分される。人がそれとどう出会い受け止めるかによって、漂着鯨は違うものになっていく。

現在ニューヨークは新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大によりロックダウンがされている。ロングアイランドに住むシネコック・インディアンの知人の一人とSNSでやりとりをしていたら、彼女が「去年鯨の漂着が多かったのは、警告だったのかもしれない」と言ったことが印象的だった。

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[写真:シネコック・インディアンのおんぶ用背負いカゴのビーズ細工]


今、私たちのまわりに様々な分断がある。他者との関わりを徹底的に無くしていくことで、ウイルスの感染拡大は抑えられるのだろう。けれど一度現れたウイルスを消し去ることは難しく、この先私たちは、「共存」を考えなければならなくなるだろう。その時の生活を想像してみると、海という外界と常に向き合ってきた人たちの物語や考え方に、何らかのヒントがあるのではないだろうか。外からもたらされるものには良いものと悪いものがある。それが良いものになるか悪いものになるかは、私たち次第だ。国の外、県の外、地域の外、家の外、自分の身体の外。その外界との関わりの全てを遮断して生きていくことはできない。

外界から絶えず流れ込んでくる力や影響とバランスを取りながら暮らしていく感覚は、自分の身体を超えた〈向こうがわ〉を想像するところから芽生えるのかもしれない。

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参考:

① 東北森林管理局「鯨山」(最終閲覧日:2020年4月24日)

② 川島秀一(2003)「第一章 寄り物とエビス」(『ものと人間の文化史 109 漁撈伝承』pp.1-36)法政大学出版局 

③ 吉原友吉(1997)「鯨の墓」(日本民俗文化資料集成 18『谷川健一責任編集 鯨・イルカの民俗』pp.409-478)三一書房

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{お知らせ}今日のnoteで書いた、最近考えていることをさらに深く考えるために、「環世界」という視点にヒントがあるように思っています。自分以外の生き物の視点から世界を見るということです。5月9日にオンラインで開催される「環世界研究室」では、鯨の話からいろんな方向へ、世界との関わり方を考えていきたいと思います。

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第21回「環世界研究室」

「ありふれたくじら」を探して〜イメージのクジラ、ほんとうのクジラ〜

広い海原に住むクジラにはめったに出合うことはできません。目の前に現われたとしても、私たちが触れられるのは巨大な躰のほんの一部。なかなか全てを知りにくいからこそ、クジラから思い浮かべることは人それぞれ異なります。さまざまな土地を訪ね、クジラにまつわる物語を集めて本を作る活動から見えてきたことをお話しします。(文:是恒さくら)

日時:2020年5月9日 (土)19:00〜21:00/30分前開場

ゲスト:是恒さくらさん(オンライン出演)|美術家

キュレーター:釜屋 憲彦さん|環世界研究家

会場:下北沢・ダーウィンルーム2Fラボ|オンライン参加のみ

参加料:¥2,500 税込|オンライン参加サイトからチケットをご購入ください。▶︎オンライン参加サイト:https://darwinroom-umweltlab21.peatix.com/

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