患者に覚えてもらえる看護師になりたい、という看護師のエゴ
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患者に覚えてもらえる看護師になりたい、という看護師のエゴ

「患者さんに名前を覚えてもらえるような看護師になりたいんです」

新人さんがこんなことを言ってきたら、あなたはどう返しますか?

一見すると良い事を言っているようにも見えますが、私はこの発言を聞くと「ああ、看護師のエゴだなぁ」と感じてしまいます。

「居心地が良い」と感じるサービスとは

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医療に縛られると視野が狭くなるので、いったん医療から離れ、私たちが普段利用するサービスを考えてみましょう。

ショッピング、飲食店、美容室…

私たちは様々なサービスを利用する時に、色んな人と接しますよね。

では、いつも気に入っているお店の店員さんの名前を覚えていますか?
店員さんを目当てにお店に通いますか?

これは時としてイエス、時としてノーだと思います。

私も気に入っているお店がいくつかありますが、店員さんと仲良くなってその人目当てで行くこともあれば、お店の全体的な雰囲気や料理の味が好きで通っているお店もあります。

ですが長年通い続けることが出来る一番の理由は、その店員さんが接客してくれることよりも、お店の全体的な雰囲気や、提供されるサービスの質が金額に見合っている、または金額以上のものであると感じる場合に限ります。

長年通ってたお店だったのに通わなくなってしまった理由としては、お店全体のサービスの質の低下を感じた時(味が落ちた、全体的な雰囲気が変わった)、店員さんが異動してしまった時などがあげられます。

つまり、どんなに名前を覚えている店員さんがいて気に入っていたとしても、些細なきっかけがあればお店から足が遠のいてしまうということです。

店員さんという「個」の存在のみで通っていたお店は、その店員さんがいなくなったり、店員さんとの距離感が変わってしまうと通わなくなってしまいます。

継続的に顧客を確保するために大事なのは、店員という「個」の存在よりも、お店の雰囲気やサービスの質という「全体」が重要だと私は思います。

接客する人の心理とは

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では店員さん、つまり接客する側の心理としてはどうでしょう?

「Aさんに会いたいからまた来ちゃった」
「Aさんにまた見立てて欲しいんだけど」
「Aさん、この間はどうもありがとう!」

名前を覚えてもらってまた来店してくれたという事実は、その人のモチベーションアップにもつながりますよね。

相手に認知してもらい、能力を評価されると、自己肯定感が上がります。
承認欲求が満たされるわけです。

この承認欲求が満たされる快感を覚えると、「また次も覚えてもらいたい」「私の能力を褒めて欲しい」「私を認めてくれそうな人をターゲットにして接客したい」という偏りが生まれます。

私個人を認めてくれる客は「特別なお客様」で、認めてくれない人は「どうでも良い客」に変化していく。すると、接客の質にも変化が生まれていくのです。

良くお店のレビューなどで「常連さんにはフレンドリーなのに、新参者は相手してくれない居心地の悪い店」とか、「常連さんと話し込んでて全然接客してくれない店」とか書かれていることありますよね。

常連さんを大事にするのはもちろん大事なことですが、常連至上主義になると新規顧客獲得の機会をどんどん失っていきます。

承認欲求、ここで言う「他人に顔を、名前を覚えてほしい」「他人にとって自分は特別な存在でありたい」「自分の能力を他人に評価されたい」という欲求は、人間本来が持ち合わせる自然な欲求です。しかし、そこばかりを追い求めると、「自分を認めてくれない人の為には尽くせない人」になってしまい、本来平等に接するべきお客さんの優劣をつけはじめます。

皆さんもお客さんの立場で、特別扱いを受けたり、逆にそっけない態度をされたりと、平等ではない扱いを受けたことってありますよね?

それではこのことを踏まえて、医療の現場の話に戻りましょう。

「患者に覚えてもらえる看護師になりたい」その真意は

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上記で述べてきたように、組織の中の「個」としての存在を追求していくと、極論を言えば「認めてくれる人には尽くす」けれど「認めてくれない人には尽くさない」という構図が出来上がります。

「患者の為に誠心誠意尽くして、名前を覚えてもらい、特別な存在になりたいと願って何が悪いのか」

私はこう考えます。

『全ての患者に平等に、同じ質の医療を提供できる環境を整えるのが最善であって、私なら出来るけれど他の看護師には出来ない、患者Aにはやるけど患者Bにはやらない、という不平等さが生まれてはいけない。大事なのは全ての患者に安全・安楽が保たれた医療が提供されることであって、医療者側の承認欲求を満たすことではない。

患者が「あなたに担当してもらえてよかった」と評価されたことを、自己満足で終わるのではなく、「患者のニード」と「医療の提供」が合致した結果、そこから何が生まれたのかという客観性をもって評価する必要がある。

もちろん、患者にとって特別な存在になるということは、質の高い医療を提供したと仮定して構わないだろう。

しかし、たまたま患者が困っている時(ニード)に、あなたがたまたま勤務していて、コミュニケーションや処置を行ったり調整を行った(医療の提供)ことが、「私は特別な存在だ」「患者に認めてもらえた」と単純に結論付けるのではなく、「どうして今まで誰にも質問できなかったのか」とか「家族のバックアップはどうだったのだろう」とか「私は他人と何が違ったんだろう」と考えることこそ、看護の評価だと思う。』

患者は手術のことを覚えていない、もちろん看護師のことも

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私は手術室看護師なので、さらっと触れておきますね。
手術室看護師は、施設によっては術前訪問・術後訪問に伺うこともあります。

術後訪問に伺うと、術前訪問であんなにたくさんお話ししたのにもかかわらず(私は長い時で30分以上お話しします)、「手術の時はすぐ眠っちゃったから全然覚えていない」とか「たくさんの看護師さんに会ったから、あなたのことは覚えてないわ」とか言われることがほとんどです(特に高齢者の場合)。

もちろん私だって「ああ、あの時のことはよく覚えているよ」と言われると嬉しくなります。その反面、覚えているということはその人にとって手術に対する記憶が何かしらの意味合いがあったんだろうな、と考えるのです。

人間の記憶というのは、意味がないもの、覚えておく必要がないものはどんどん忘れ去っていくよう出来ています。特に二度と同じ過ちを繰り返さない為に、楽しい記憶よりも嫌な記憶の方が鮮明に覚えているものです。

ですから、手術という大イベントの時のことを「覚えていない」という人は、少なくとも「手術の時にとても嫌なイベントはなかった」と判断します(緊張してあまり覚えていない、ということも中にはあります)

個人的には「私」を覚えてくれていると承認欲求が満たされるから嬉しい。けれども、覚えていないということは無事に手術を乗り越えられた、と判断するわけです。

結局のところ看護師の名前とか顔なんて、患者の受ける医療がつつがなく進めばどうでもよいことです。そこを追い求めるのは、看護師のエゴでしかないと私は思います。

他人の評価を待つよりも、事実を自分の中でどう受け止めるかの方が大事

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私たちは日々生活していく中で、そして働いている中で、様々な人と接します。

「よくやっているね」とか「あなたとお話しできてよかった」というようなフィードバックを得られることもあれば、全然得られない日々が続くこともあるでしょう。

私もかつて周りの人以上に仕事を抱え、パンク寸前まで行った時に「あなたなら出来ると思ったのに、負担になっているとは思わなかった」と上司に言われて愕然としたことがあります。

そして強く思ったのです。

「この人は私のことを何も見てくれていないし、評価もしてくれない。もっとちゃんと見て、私を評価して欲しい」

この時の私にとって、
評価してくれない上司がで、
評価しなくても回る組織がで、
評価しなくても年功序列で決まる給与体系がでした。
(今でもそう思っている部分はありますが)

しかしよくよく考えてみれば、結局のところ上司に「よく頑張っているね」と評価されたところで、給与はほとんど変わらないし、私の承認欲求が満たされるだけだと気づいたのです。

承認欲求が満たされれば一時は心の充実考えられますが、継続的でなければまた「なんで評価してくれないのか」の呪縛からは解き放たれません。

最終的に「私の中で最善を尽くしたと思えれば、他人の評価などなくてもそれでよいのではないか?」という考え方にたどり着きました。

(注:ダメだったかもしれないことは、他人から適切に評価されるべきだと思います。あくまでもこれは自分の中で成果を上げた、という場合の話です。他人からの否定的な評価は、素直に自分の中で一度受け止める姿勢も大事だと思います)

誰かに承認されることをひたすら待つのではなく、自分の中で消化出来ればそれでよい、という考え方を徐々に受け入れられるようになってきたのです。

さらに言えば、私は他人に期待することを極力やめました。
これはまた別の機会にnoteへ書こうと思います。

さくらこ

Twitter:@sakurako_ope
site:看護師指導の基本となるもの

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看護師教育を考える人です。教育について思ったことをつらつらと書いていきます。