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「響け!ユーフォニアム」で描かれる共感の難しさと、正しさの残酷さ

『響け!ユーフォニアム』を見ている。12話はすごい回だった。いろいろ考えさせられた。とくに「正しさは皆に平等」という滝先生の言葉が頭に残っている。この作品は「誰かと同じものを共有すること」つまり「共感」を描く作品だと私は思っている。共感と正しさはどう関係しているのだろうか。そこに正しさは必要なのか。「共感」について考えさせられた本『利他とは何か(伊藤亜紗編)』と合わせて、考えたことをメモしておく。

#ネタバレあり

●ユーフォが描く「深い共感」
『響け!ユーフォニアム』では、初期から様々な「共感」が描かれてきた。1期で久美子が麗奈に「深い共感」を感じる有名な場面がある。久美子には、中学時代の麗奈の「悔し泣き」は謎だった。でも久美子が宇治橋で「悔しくて死にそう」と叫んだときに「麗奈の気持ち」が突然わかる。あのとき麗奈はこういう気持ちだったのだ。このシーンは凄かった。「深い共感」の描写として、私の頭にずっと残っている。
一方で、優子先輩の「共感」も描かれる。優子先輩はこう思う。かおり先輩の気持ちが痛いほどわかるから、私が気持ちを代弁しなければならない。そこに勘違いも含まれていただろう。誰かの気持ちが自分の気持ちのようにわかると感じるとき、私たちはそれを「共感」と呼ぶ。共感とは主観的経験なのだ。極端な話、相手が否定しても「あなたが気付いていないだけ」と思うなら、それも共感の一つだろう。でも久美子が宇治橋で感じたものは、そんな怪しさを感じない「深い共感」だ。

●「利他」から見た「共感」のむつかしさ
私は共感について考えるとき、かならず思い出す本がある。『利他とは何か(伊藤亜紗 編)』という本だ。

利他とは「自分以外の誰か」のために何かをすること。だから利他的な行動は共感から生まれやすい。しかし「共感」には問題が多い。この本では問題かいくつも挙げられている。たとえば、著者は特別支援学校の廊下に「好かれる人になりましょう」という標語が書いてあったのを見て愕然とする。共感を得られないと助けてもらえない。そういうプレッシャーが作らせた標語だろう。そこでは何かが決定的に間違っている。
「共感」がベースにある利他には問題がある。だからその反動から生まれた「効率的利他」では、利他を共感から切り離そうとする。そのために利他を「客観的な数値」で測ろうとする。でも、それはあまりうまくいかない。なぜか。そこで挙げられている事例がとても興味深い。

●「共感の否定」のむつかしさ(数値化で消える感覚)
紹介されているのはこんな話だ。あるイスラエルの託児所で、子供の迎えに来るのが遅れた場合に罰金を科すことにした。遅刻を抑止するためだ。でも逆に遅刻は増えてしまった。理由は親の気持ちになるとわかる。「託児所に迷惑にならないように、遅刻しないようにしよう」という親の心理は、罰金を支払えばよい、という心理に変わってしまったのだ。私たちが自然にもっている「共感」は数値化によって消える。私たちが想像する以上に、社会は「共感」で回っている。だから「共感を切り離す利他」は上手くいかない。
私たちは良く知らない人たちのための募金に、どこか居心地の悪さを感じてしまう。その理由も根っこは同じだろう。私たちは無意識に共感を求めている。数字はそれを切断する。それで私たちの頭は割り切ることができる。でも私たちの体は「空しさ」を抱え込む。

●「正しさ」で受け取る「残酷さ」
「正しさ」と「数値化」は似ている。正しさも数字と同じように「共感を断ち切る」ものだ。良い音が正しい。その基準なら久美子ではなく真由が選ばれるのが正しかった。正しさによって久美子にソリを吹いてほしいという「共感」は断ち切られた。
しかし「正しさ」と「数値化」には違いがある。数値化は「空しさ」を与える。でも正しさが与えるのは違う。12話の再オーディションで「正しさ」が共感を断ち切ったとき、皆が感じたのは「残酷さ」だ。それは「正しさの基準」を選んだのは自分たちだからだ。「断ち切った側」に自分がいるのかどうか。そこに自分がいるとき、私たちは残酷さを感じるようにできている。

●選べるのは「空しさ」か「残酷さ」
共感には問題が多い。私たちは無意識に共感を求めて生きている。だれもが安易な共感を感じ続ける。優子先輩は麗奈に「オーディションで負けて欲しい」と言ったけど、それは間違っている。奏の先輩は「これなら3年生が吹けばよかったね」と奏の前で口にした。それは感じたことを素直に言っただけのだろう。でもそれは、おぞましい発言だ。それらは、いわゆる「空気」が生んだもの。そして空気は共感から生まれる。久美子と麗奈の間の「強烈で深い共感」は、共感の素晴らしさを示すものだ。でもそれは特別な場合にしか生まれない。私たちの周りには浅い共感が溢れているのだ。私たちは共感に絡めとられて苦しくなることがある。前に進めなくなるときがある。共感を断ちきらないとダメなときがある。
みんなで前に進むために共感を断ち切る。そう決めたとき、残念ながら「浅い共感」も「深い共感」も、差別なく断ち切るしかない。私たちに選べるのは、数値で断ち切るのか、正しさで断ち切るのか。「空しさ」か「残酷さ」か。それだけだ。どちらを選ぶべきなのかは難しい。空しさは人をじわじわと蝕む。一方で残酷さは人を深く傷つける。傷から立ち直れないかもしれない。残酷さの方が良いなんてことは、安易に言えない。でもやっぱり、罰金を払えば遅刻してもいいと思った親たちより、大吉山で「死ぬほど悔しい」と叫ぶ久美子を、選びたいと思ってしまう。空しさより残酷さを。そんな強さが自分にあるのかはわからないけど。

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