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「幽霊の正体見たり枯れ尾花(かもしれない)」自分の依存心と向き合う③

(前回までのあらすじ)

私はしょっちゅう漠然と「寂しいなー」と感じます。

好きな人がいる時は、そんな時によくその人を思い出していました。しょっちゅう思い出すので、私は本当にその人が好きなんだなーと思っていました。でも心理学を勉強しだして自分と向き合い始めると、私にとってその人は「痛み止め」だったんだなと気づきました。

やりたくない仕事をやらないといけない時、誰かに腹を立てた時、誰かに嫉妬した時、自分の人生が孤独だと感じた時、自動的に彼が思い浮かんで、そういうネガティブな感情を消してくれていました。

それに気づき始めてから、急に彼のことが浮かんだら、「あれ今、何の感情をごまかそうとしたのかな?」と考えるようにしていました。一度、「子供が夕飯オムライスがいいって言うから、足りない食材スーパーに買いに行かないとな、めんどくさ」と思った瞬間に彼を思い浮かべたことがありました。さすがにこれは笑っちゃいました。こんなちょっとのネガティブもごまかしながら生きてきたんかい、と。

ずーっとそうやって、ネガティブな感情を感じないように、痛み止めに依存して生きてきたんですよね。


私の中にはそうやって無視し続けた感情がたっくさんたまっています。この感情たちをちゃんと感じて外に出してあげないといけない。心理学の崇高な金言「感情はうんこと同じ、溜めると体に悪い」がいま脳内で燦然と輝いています。

ネガティブな感情の中でも「怒り」の解放はわかりやすいなぁと思います。お恨み帳(怒りをノートに書きまくって解放する方法)をやっていると、頭にカーっと血が上ってきて「ふざけんな」「てめーなんか死んじまえ」なんて書きなぐるうちに気づけば1時間。気づけばすっきり。なんてことになります。

でも怒りほど原始的なエネルギーを持たない「悲しみ」「寂しさ」をそうやって爆発的に感じきるのは難しいですよね。ノートに書いていても、ペンがあんまり進みません。


今までの私は、寂しさ悲しさを感じた時に、「そうだね、寂しいんだね」と自分に声をかけて否定せずにいたり、「周りにたくさん人がいるんだから、その寂しさは幻だよ」と言い聞かせてみたりしていました。

でも、これ、全然ちゃんと向き合っていなかったなぁ。子育てに置き換えると、子供が「寂しいよ」って言ってる時に、上っ面だけのオウム返しで返したり、論破したり笑。

子供にこう言われたら、きっと自分のことのように辛くなって、真心をこめて抱きしめると思います。真剣に「どうして寂しいと感じるの?」「どんな時に感じるの?」「どうなったら寂しくなくなる?」と問いかけます。

それを自分にもやってあげないといけなかったんですよね。自分の寂しさ悲しさを本気でちゃんと感じる。抱きしめる。そして、ごまかさずに自分の本音を知ろうとする。それが本当の意味で自分の依存心と向き合うことになるんだと思います。


だけど、これをやろうとすると、静かな海の底に一人で沈んでいくような感覚になります。私にとって自分の依存心を認めることは、誰かに愛してほしいと思っていたけど愛してもらえなかった傷をもう一度感じようとすること。できれば避けたい。すごく嫌。

だから、その感情を自分と切り離して客観的に見つめます。「寂しいよ!誰か愛してよ!!」と感情の渦に巻き込まれるのではなくて、「私は寂しいと思っているんだな」「私は誰かに愛されたいんだ」と切り離します。

そして「どうして寂しいの?」「どうなりたいの?」「どうして誰にも愛されていないと思うの?」「誰に愛されたいの?」と問いかけ続けます。そんなふうに本気で向き合っていくと、自分の依存心の根っこにたどり着くんじゃないかなと思います。私の場合は、母に愛されたいという寂しさでした。

その、ずっと無視していた感情を理解して、受け入れる。その気持ちを持っている自分を許す。一人ではなく、感情を抱きしめながら二人で海の底に沈んでいく。これからしばらく、そうやって依存心を癒していこうと思います。


それにしても、ずっと「依存心」を嫌って、見ないようにしていたから、いざ向き合おうとしたら、なんだか、もやがかかった巨大な怪物が暴れているような、とてつもなく大きな敵に立ち向かわないといけないような気がしていました。でも、ちゃんと向き合ってみたら意外にかわいい仔猫ちゃんが「なでなでしてー」って鳴いているだけかもしれないなー。

どんな気持ちでも私の中にあるものなんだから、私に手なづけられないわけはないんですよね。ムツゴロウばりによーしよしよし、ってすればいいだけなのかもね。(世代を選ぶ比喩ですみません)


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