見出し画像

7月「エーデルワイスの思い出」⑧

 お墓参りの後、僕は記憶を失くす前に彼女と行った場所へ彼女を連れて行った。元々そんなにたくさん、思い出の場所があったわけでもなかったけれど、彼女が好きだった場所へ連れて行った。連れて行く先々で思ったのは、記憶を失くす前も今の彼女も、何ら変わりのない彼女だったことだ。僕は「記憶」にこだわっていたけれど、今を生きる彼女も僕が一緒に過ごした彼女も、同じ僕が愛したひとなんだ。もうひとつ、昔の僕では気づけなかったこともある。今の彼女だから気づいたといってもいいかもしれないが、彼女はとても感情が豊かだということだ。初めてデートに誘った植物園に行けば、一面に咲くキレイな花を見て感動したり、小さな水族館に行けば、ペンギンの行進を見てはしゃいでみたり、可愛いものを見れば、可愛いと興奮したり…あの頃は気づけなかったけど、彼女はよく笑うし、よく怒るひとだった。僕はそんな彼女を今日一日傍で見て、ようやく解ったんだ。

 何もかもを捨てて、二人で生きていこうとしたあの日々の中で、僕は彼女を幸せにしたいという思いばかりが先走って、彼女の感情や心を救うことが出来なくなっていた。それだけじゃない、僕は僕自身の心もいつの間にか置き去りにして、生きていくことに必死だった。そんな僕に気づいて、彼女は僕の元を去ることにしたんだろう。それならやっぱり、どんな結果になったとしても、僕は彼女をあそこへ連れて行かなければならない…。

「今日は、最後に連れて行きたいところがある。君に何が起きたとしても、今度こそちゃんと守る。そしてちゃんと全部話すよ。その結果、君がどんな未来を選ぼうと、僕はそれを尊重する」

 空が夕陽色に染まり始めた頃、僕は彼女を最後に別れた海へ連れて行く。あの日、彼女が身を沈めていた海が見え始めると無意識なのか、ギアを握る僕の左手に、彼女がそっと右手で触れた。その手は緊張しているせいか、少し冷たかった。あの日と同じ場所に車を停め、外へ出る。潮風が鼻腔を抜けていき、僕の記憶が鮮明に蘇る。

 離さないと決めていたのに、目覚めた時に彼女が隣に居なかった世界。何度も嘘だと、夢だと言ってほしかったけれど現実は非情で、朝目覚める度に、二人で過ごした家に帰る度に、彼女が居ないという現実を地獄に見せた。それでもようやく生きている彼女に出会って、僕はやっと息をすることが出来るようになったんだ。夢を語っていた彼女が、出会った頃と同じように、大好きな花屋の仕事をしている姿を見て、僕は神様に感謝した。君の隣に僕が居ないことなんて、どうでも良くなっていたんだ。

「花巻さん? 顔色悪いです。帰りましょう、海風は冷たいから、体調が良くない人には毒ですよ」

「…絢。最後だから、ちゃんと話しておく。僕が初めて君に出会ったのは、兄のマンションのエントランスで、君は花を配達していた。人とはうまく話すことが出来ないのに、エントランスを花で飾る君は、まるで花と会話をしているように見えた。花に向ける真摯な瞳も時折見せる笑みも、愛おしそうに花を見つめて仕事をする君の周りが輝いていて、僕は一目惚れで君を好きになった。でも君が僕と自然に話してくれるようになるまで、凄く時間がかかったんだ。君は人見知りが激しかったからね、僕は先ず君に信用してもらうことと、君に友人として認識してもらえるように頑張ったんだ。友人を経て、僕らが付き合うまでに3年もかかった。初めて君と出会ってから計算すると、5年半だ。僕は元々せっかちな人間だったんだけど、君に関しては自分でも気長になったなあ…と今でも思うんだ。それから恋人になって、一緒に暮らすようになって、プロポーズを君が受けてくれた時は、世界中で一番の幸せ者だって思った。君とこの先も一緒に生きて、歳をとるんだって思っていたんだ。でも僕の家族に反対されて、駆け落ち同然で家の反対を押し切って、僕は君と家族になった。僕は後悔していなかったけど、君は僕が家族を捨てることを良く思ってなかった。それは君が家族を失うことを経験しているし、家族が居ないことの辛さや苦しみを誰よりも知っているからだったんだね。僕は君さえいればそれでいい、二人なら何でも乗り越えられると思っていたけど、ずっと一人で生きてきた君の大変さを僕は何一つ理解出来ていなかったんだ。毎日は辛いことばかりじゃなかった。君と一緒に居られて本当に幸せだったし、君も笑ってくれていた。でも僕は君の唯一の家族で、たった一人の理解者だって…思い込んでいたせいで、君の本当の気持ちにも変化にも気づけなかった。君を幸せにしたいと言いながら、結局君の幸せが何であるかを知らない、僕はそんな男だ。そしてあの日…僕はこの海へ身を沈めようとする君を見つけた。暗い海の中で必死にもがいて君の手を取ったのに、君は僕を叱ったんだ。初めて君が怒る姿を見たよ。僕が好きな瞳から涙をたくさん流して怒る君の姿に、僕は君を抱き締めて誓ったんだ。もう二度と離さないと。このまま二人で死んでしまったとしても、構わないとさえ思った。でも君の夢…自分の店を持つという夢を叶えてあげられないこと、それだけが僕の心残りだった。目覚めた時君は居なかったし、君を見つけるまでの僕の日々は地獄のようだったけど、こうして君が生きていて、君が好きだった花屋の仕事をしている君を見て…そして今日君と過ごして、僕はようやく解ったんだ。僕が君の…絢のために出来ること」

 絢は僕の話を聞いていた。表情は薄暗くて見えなかったけど、僕にはちょうど良かった。もしも彼女の表情が見えていたら、僕はきっと次の言葉を口に出来なかったから。決意をしたけれど、彼女の顔をまともに見る勇気は、やっぱり僕にはなさそうだったから。僕はそんな弱い人間なんだ。

「絢、今日までありがとう。これから僕は、君の幸せを遠くで祈ることにする。君が夢だった花屋の店をもつことも、遠くで応援する。君は僕を十分幸せにしてくれた。今度は僕が君を幸せに…いや、君を解放する番だ。記憶を失くしていても絢は絢だよ。もう良いんだ、記憶を取り戻す必要はない。そのままの君で幸せになってほしい…。だから君とは今日でお別れだ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?