【掌編小説】最中、トイレにいくこと(冬)

(ことの最中にトイレにいくだけの話。直接的な描写はないです)

「ごめん、トイレいっていい?」
 電気を消してベッドに入ってから、このセリフをいうのは三回目。そろそろうんざりされてるんじゃないかとか、気にするのも面倒になってきた。
 足元に気を付けながら、浴室と一緒になったトイレまで歩いていく。廊下の空気は冷たかった。ズボンくらいはいてくればよかったな。軽く足踏みをしながら、よく見えない壁をまさぐる。これだ。ぱちん。暗闇に現れた、明るく光る、箱。宇宙ステーション。私はほっとして中に入った。さむい! そこは廊下よりも寒かった。はやく戻ろう。そう思って私はさっさと用を済ませた。
 手を洗いながら、鏡に映った自分の顔を見る。もう全然酔ってない、しらふの顔をしている。あ、にきび。明るい場所だとなんでも詳細に見えるのでいけない。見下ろすと、よれよれのTシャツと、細くはない足が見える。ふだん絶対に着ない、レースだらけの下着も。パンツのフロントについた飾りが、目印みたいにきらきらと光っていた。いや、たしかにそれは目印なのだ──真っ暗な部屋では、どっちが前だか分からないから。ただ、明るい場所ではちょっときらきらしすぎている。
 顔を上げると、鏡の中の自分が見つめ返してくる。何か言いたげだ。ためしに、質問を投げかけてみた。楽しいですか? 自分は答える。ちがう、楽しみに来たわけではない。ほんとうに? ほんとうに。そう。じゃあ何しに来たの?(しばし沈黙)傷付きに、きた。そう。でもそれは、傷付くのが楽しいってことなんじゃないの? (また沈黙)そうかもしれない。そう。いま傷付いている? うん、少し。そう。じゃあよかったね。
 私は身震いした。やっぱり寒い。戻ろう。でも戻るのが少しおっくう。あの部屋にあるのは、私が考えていたような甘い感傷ばかりではないのだ。私はあの人の顔を思い浮かべた。明かりをつければパッと消えてしまいそうな表情。そうだ──傷付きたくって来たのに。あなたの方がずっと傷付いてるって顔をするから、夢から覚めてしまった。
 やだなあ。寒い。戻るのも。やだ。はあ。戯れに息を吐くと鏡が白くなった。せっかくだから、指で小さな星を描く。この星のあとが、朝まで残っているといい。見つめると浮かび上がる、冬の幽霊みたいに。それで顔を洗いに来たあなたが首を傾げればいい。私は一人でちょっと笑って、ようやくトイレから出た。
 寒い寒い、といいながらベッドにもぐりこむと、そこには眠たい人の体温があって、とても、温かかった。すやすやと寝息が聞こえる。そっか。寝たのか。私はまたちょっと笑って、そのまま温かい布団の中で、寒い恰好のまま、眠った。

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