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ショートショート | 田中くん

1年5組の田中くんは、みんなに怖がられる存在だった。

家柄が家柄だけに、誰も田中くんに近づこうとはしなかった。

誰も、田中くんと目を合わせない。

田中くんは、話しかけられることもなければ、
いじめられることも当然なかった。

教室の窓際で堂々とタバコを吸っていても、
それをとがめる先生もない。

クラスメイトたちは何も気づかないふりをしながら
田中くんに目をつけられないことを常に気にした。

しかし、当の田中くんは誰かに目をつけようなどという
気持ちはさらさらなかった。

自分の生まれを憂うことでも家族を恨むことでもなく、
ただその時間に身を委ねていただけなのである。

田中くんはこう見えて、美しいものが好きだった。

放課後、屋上へ行くと綺麗な夕焼けを見ることができる。

こんな綺麗な景色が見えるのに、そこに
誰もいないことがいつも不思議でならなかった。

空は、涼しげな水色だ。

それが山の方へ向かうにつれて
だんだんとピンク色に近づいていく。

その色のグラデーションを楽しんでいると、
いつの間にか濃いオレンジ色が現れるのだ。

昼から夜に変わる瞬間は、毎日見ても
飽きるものではなかった。

学校の裏側にはアパートがあって、
そこには花という名前の女の子が住んでいた。

年齢は5、6歳くらいで、
つやつやした黒髪が印象的だった。

その子はいつも窓辺にいて、
ときどき田中くんを気にして見ていた。

テーブルにはいつもノートを広げていて
何やら熱心に書き込んでいる。

田中くんはとくに気に留めることもなかったが、
ある日の出来事だけは別だった。

その日は午後3時くらいまで強い雨が降っていて、
夕方になるとそれはすっかり止んだ。

田中くんはゆっくりと屋上の扉を開けると、
そこにはみずみずしい光景が広がっていた。

屋上の水たまりは空の様子を反映していて、
雲は慌てるように次から次へとその場をはけていく。

遠くからやってきた風が通り抜けると、
田中くんはまた空を見上げた。

雨上がりの空は特別きれいだ。

特に、大雨が降った後の景色は格別だった。

雲の合間から金色の光が漏れていて、
神々しい眩しさを放っていた。

田中くんはその空をじっと見ながら腰をかけると、
いつものようにタバコに火をつけた。

その時だった。

視線を感じたその先には、いつものように
あの小さな女の子がこちらを見ていた。

いつもと違ったのは、今日は熱心に
何かを伝えようとしていたことだ。

どうやらそれは向こうから流れてくる
雲に関係しているらしい。

その雲がどうしたというのだろう。

田中くんはよくわからないまま再び女の子に目を向けると、
その子はTシャツの裾を引っ張りながら
そこに描かれている熊がヒントであることを教えてくれた。

なるほど。

たしかにその雲は熊のかたちに見えなくはない。

その子は自分のTシャツの熊と
流れてくる雲のかたちを重ねて見ていた。

そしてそれを発見したときの感動を
どうやら田中くんとも共有したかったらしい。

とてもかわいい子だ。

田中くんは思わず笑わずにはいられなかった。

その後、田中くんは「本当だね」と心の中で呟きながら
その子に向かって何度も頭を上下に振った。

その子は今、恥ずかしそうに笑っている。

気づいてくれたことに安心したのだろう。

二人は、その雲を見えなくなるまで見送った。

それは、夏が本格的に始まろうとしている
7月中旬のことだった。

父親の下で本格的に仕事を初めてから
半年くらいが経った時、大きくなったその子の姿を
街で偶然見かけたことがある。

高校生になったその子は
とても美しい女の子になっていた。

つやつやした髪を一つにまとめて、
友達と楽しそうに話をしながら歩いて行く。

田中くんはタバコを吸いながら、
その子の後ろ姿を最後まで見ていた。

空はだんだんオレンジ色に染まってきて、
雲はゆっくりと流れている。

あの日の出来事を思い出させる
光り輝く夕方だった。

雲の間から金色の光が漏れていて
それが田中くんの顔を明るく照らした。

あの子はもう行ってしまった。

田中くんは、空を流れる雲を
しばらくじっと見続けた。





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