#エッセイ|自転車おじさんから自分を省みる
台風並みの強風。
駐輪場はドミノ倒しの自転車置き場となる。
翌朝。
それらはすべて、元に戻っている。
朝、ゴミ捨て場へ向かう際、道中にある駐輪場を見た。
自転車がすべて倒れている。
昨夜はものすごい風だった。
朝になって風はおさまっていたが、
「どうせまた倒れるしいいや」と放置していた。
面倒臭いのが本音である。
そこへ、1人のおじさんがやってきた。
隣の駐輪スペースへ向かっていく。どうやら自転車でお出かけのようだ。
そう思いながら、少し離れたゴミ捨て場へ歩く。
ものの数十秒。
ゴミ捨て場を折り返し、家へ戻る頃、おじさんとすれ違った。
「あれ、まだいたんだ。」
自転車の鍵をあけて出てくるだけにしては遅かったのだ。
そうして家に戻ろうとした時、駐輪場を見て驚いた。
自転車が立っている。
我が家の駐輪場だけでは無く、隣のスペースの自転車も、皆きれいに立っていた。
「さっきのおじさんだ…」
私自身、誰かのために何かをするのは好きだ。
「ありがとう」と言われると、自分に少し自信をもてるからだ。
役に立てたと思えることが単純にうれしいのだ。
電車で席を譲る。
重い荷物を持っている友達がいたら一緒に持つ。
次に入る人のために、ドアを開けて待つ。
特段すごいことでも何でもない。
当たり前になっている人もいると思う。
こんな些細なことだが、自分がされて嬉しいことはやろうと思っている。
いい人アピールになるかもしれないが、
単純にそうすることで自分を好きになれるのだ。
だが、この自転車おじさんはどうだろう。
誰にお礼を言われるでもなく、
冬の寒いなか、見ず知らずの人の自転車を整理している。
お礼を言われるどころか、
その行為自体、誰にも見られることはない。
誰かのためにしている行為でも、
おじさんと私の間には大きな違いがあった。
そこに相手がいるかどうかだ。
自分がやっている誰かのための何かは、
いつも目の前に相手がいる。
電車で席を譲るのも、目の前に立っている人がいて、
その人が足が悪そうだとか、妊婦さんだとか、
何だか疲れていそうな雰囲気が出ているとか。
そういった目に見える "困っている人" を認識して初めて、
私のスイッチは入る。
「誰かのため」と思っていた私の行動は、
自分を好きになれるきっかけを、誰かからもらっていたのだ。
一方の自転車おじさんは、
"困っている人" が目の前にいるかどうかは関係ない。
状況だけでスイッチが入る。
もし自転車おじさんが私と同じタイプと仮定するなら、
自分を好きになるきっかけを、自分で生み出すことができるのだ。
誰かのために何かする。
「お節介」が頭をよぎり、さじ加減が難しいと感じてしまうが、
相手にとって迷惑でもなんでもなく、むしろちょっと嬉しい。
それくらいのことであればいいのかなと思う。
そして自転車おじさんのように、
自分からそのきっかけを見つけられる人になりたい。
この一件以降、
風が強い夜は、朝がくるのが楽しみになった。
不謹慎ではあるが、
自転車おじさんが現れてほしいと思ってしまう。
心があたたまるあの感覚にまた会いたい。
※自転車おじさんの行為の理由は、誰にも分からない。
私が思っているような誰かのための行為ではなく、
単純に自転車置き場がぐちゃぐちゃになっているのが
気に入らないだけかもしれない。
だがここでは私の自由に推測させてもらいたい。
自転車おじさんのおかげで、その日はずっと心穏やかに過ごせたから。
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