『光太郎』(後)
「ところでさ、あの子っていくつなの」
「え?」
すっかりぼんやりしていたら、喜和子の話題はまた光太郎に戻っていたらしい。
「同じ干支の生まれだから、21…? 2になったのかな」
「え、ひとまわり年下って事? ねぇ美砂、沢木さんも同じ干支の生まれだって言ってたよね。沢木さんは一回り年上でしょ? わぁー、あんたってば守備範囲が広いだー!」
喜和子は大げさにソファーにそっくり返った。その拍子にタイトスカートから大きく太腿がのぞく。少し酔っているのか、妙にテンションが高い。
「年齢差なんて単なる偶然よ。第一、ピカちゃんは……」
「へぇ~、ピカちゃんって呼んでるんだ!」
しまった……。
「美砂のカレシってさ、学生の頃からいっつも年上で、しかも、なんかこう、枯れたような男ばっかりだったじゃない? 見ててちっとも面白くなかったのよね。妻子もちの沢木さんとなら、さすがの美沙もどろどろの恋愛するのかと思ったら妙にさばさばとしてるし……。その美砂が、年下と二股とはねぇ、意外だわぁ……フフフ」
男といえば愛だ恋だという見方しかしない肉食系の喜和子は、恋愛の話に関しては昔から気に障る存在だった。だから私は、たとえ自分にいろいろあったとしても、喜和子には話さないことにしてきた。
さばさばしているように見えるのは、そう見せているからだ。
「そうだ、今度、そのピカちゃんを貸してよ。ああいう、ちょっと中性的な、線の細い男の子を探していたのよ。少しの時間でいいからモデルになってもらいたいな」
貴和子はイラストレーターだ。小説の挿し絵も描いている。
「貸してなんて言い方やめてよ。自分で交渉したらいいわ。喜和子のことは話しておくから」
私はさもなんでもないように光太郎の電話番号を口にした。どうせ私の反応を見ているだけで、モデル云々だなんてただの思いつきだと思ったのだ。ところが喜和子は、すぐ覚えてその場で自分の携帯に番号を登録してしまった。
「ピカちゃん・・・っと、よし。じゃあ、明日の午後にでも電話するからその前に話しておいてね。やーん、嬉しいなぁ。彼、きっと最高に可愛いモデルよ。助かるわぁ、美砂」
「あのね、可愛い可愛いって言わないでよ。犬や猫じゃないのよ?」
「あら、だって可愛くないの? 一回りも年下だったら、普通可愛いでしょ。美沙だって沢木さんに可愛がられてるでしょ?」
沢木はライバル塾のオーナーだった。どこでどんな私の評判を聞いたのか知らないが、「うちの塾の講師にならないか」と接触してきたのが知り合った最初だった。
沢木の示した条件は魅力的で、移ろうかどうかと迷っているうちに、なんとなく私たちは「そういう関係」になってしまった。そうなってしまったら秘密を守る為にも沢木の塾に移るわけにはいかなくなり、結局、私は未だに最初の塾に居続けている。
初めの頃、沢木が既婚であることは私にとって大きなしこりだった。けれど今では、妻子がいて当たり前のような「振り」ができるようになっている。別れろ別れるなどとごねるよりも、受け入れてしまった方が楽だったからだ。年の離れた沢木は、わたしにとっては保護者のような、精神安定剤みたいなものかもしれない。でも決して、甘えているつもりはなかった。むしろ、素直に甘えることができたらどんなに楽だろうかと思うくらいだ。
光太郎だって、私に甘えているわけではないだろう。それに、私と光太郎は、貴和子のピンク色の脳みそで想像するような間柄ではないのだ。
けれども、そういうことを喜和子に説明するのは果てしなく億劫だった。
* * *
いつものように光太郎が「お泊まりセット」を持ってやってきたのは、それから10日ほど過ぎてからだった。「お泊まりセット」と称するそのリュックの中に、スプーンやお箸の「給食袋」や描きかけの漫画の他に、光太郎が何を入れているのか私は知らない。本当にユミちゃんと「お泊り」するためのバッグなのかどうか、それもわからない。ただそれはいつも光太郎の左肩に下げられて、光太郎とセットでやってくる。見えないものにバッグの中から見つめられているような気がすることもある。
隠し事のあるときには特に……。
「どうしたの? 美砂さんの顔、こっちのほっぺた、赤いよ」
「なによ。じろじろ見ないでよ」
私は手のひらで左の頬を押さえた。
「実を言うとオレ、昨日もここに来たんだ。でも、美砂さんとこ誰か来てただろ? 今日も同じ時間だとかち合うかもしれないって気づいて、わざわざ山手線を一周乗ってから来たんだぜ。ああ、なんて思いやりにあふれた大人なオレ」
「一周なんかしてないで、聞いてくれたらいいじゃない」
「いやいや、メールさえも憚られるということがあるのです。これでも小心者なのだよ」
変に遠慮深い光太郎はどこか奇妙だ。
「どうしたの? ユミちゃんと喧嘩でもしたの?」
「ん? なんでユミ? そんなことないよ」
「それならいいけど……」
喧嘩じゃないのかと、ほっとしている自分がおかしかった。人のことなんか心配している場合じゃないのに。
私はキッチンへ行った。とりあえずお湯を沸かそう。コーヒーを煎れようと思った。
「あ、美砂さんちに、美砂さんの物じゃない物がある」
「え?」
振り向くと光太郎が太い万年筆をソファーの下から拾い上げているところだった。
沢木の万年筆だ。
夕べの客は沢木だった。酔って予告もなくやって来て、「おまえのために、おまえの前で書くから」と、「離婚届」をテーブルの上に広げたのだ。
いきなり、しかも酔っ払った状態で現れたということが初めてのことで、私はものすごく腹をたててしまった。初めて目にする離婚届の用紙も我慢ならなかった。なんでそんなものを私の部屋に持ち込むのかと。
何が沢木に離婚の決意をさせたのか知らないけれど、そういうことは奥さんとの間で話し合って決めることで、私のためにどうこうとは言って欲しくなかった。第一、何を今更……。
「おまえが喜ぶと思ったのに」と沢木は言った。その言葉がまた私の心を閉じさせた。
「べつに、あなたと結婚したいわけじゃない」
思わずそう言ってしまったら初めて殴られた。
「じゃあ、俺はおまえの何なんだ?!」と。
そっちこそ今更なに?
光太郎が拾い上げたのは、そうやって言い争った時に転がり落ちた万年筆だろう。無論、それを光太郎に話すつもりはない。
「それより、喜和子のアルバイトはどうだったの?」
私はいつものように、マグカップと紅茶碗にそれぞれコーヒーを注ぎながら聞いてみた。アルバイトのことはずっと気になっていたのだ。
「面白かったよ。いろんなポーズとかやらされた。ヌードもね」
「ヌード? いったいなんのモデルだったのよ!」
「官能小説の挿し絵」
しらっとそう言いながら、光太郎は沢木の万年筆を使って、広告の裏に何かを書きはじめた。
「うそばっかり」
わたしは自分に言い聞かすように言った。いくらなんでもヌードなんてありえない。
「本当だよ。芸術じゃなくて、あの人の絵はただのスケベだね。大人の女っていうか、牝だな。美砂さんと全然違う。ユミとも違うタイプ。オレ、食われちゃうかと思ったよ」
下を向いてペンを走らせながら、光太郎は言う。そう言ったあとでいつもの瞳でニッと笑うのかと思ったら笑わない。冗談だと思って聞いていたけれど、喜和子ならやりかねないような気がしてくる。同時にムカムカと怒りがこみ上げ、沢木に殴られた頬の痛みもぶり返してくるような気がした。
「どうしてそんなモデルなんかするのよ。喜和子に食べたいって言われたら食べられちゃってたわけ?!」
光太郎はわたしを無視して書き物を続けている。わたしはますます腹が立つ。
「だいたいね、モデルなんか頼まれたって断ればよかったでしょ!」
自分でも勝手を言っているのはわかっていたけれど、止められなかった。
「なんだよ、美砂さんが紹介したんだろ? 可愛い男の子がいるからって、美砂さんがあの人にオレの携帯の番号を教えたんだろ? おかげでオレはあれから毎日、あの人のくだらないおしゃべりにつきあわされてるんだ」
それは違う!…と思ったけれど、どこから説明していいか分からなかった。
「あの人に言われたよ、ピカちゃんは24歳も年上の男に勝てると思ってるの? ってさ。美砂さんがどれだけ沢木ってやつに惚れてるのか、延々と聞かされたんだ。何でオレはそんなことをあの人から聞かされなきゃなんないわけ? すっげー不愉快だった」
喜和子め……!
「だいたいさ、そんなに好きなら、どうして美砂さんちにはそいつの気配がないんだよ。沢木ってやつと永遠に続くなんて信じられないから、余分な食器も、灰皿も置けないんだろ? そんな惚れ方、オレにはわかんないよ」
光太郎はペンを置いて立ち上がった。急に身長が伸びたように大きく見えた。
「キミには関係ないでしょ。勝手な解釈しないでよ」
「そうやってさ、自分に都合のいい部分だけ相手を受け入れて、それ以外は断固拒絶する。美砂さんのそういうところが、実は誰かを傷つけてるって考えた方がいいよ! もっとちゃんと向き合えよ!」
光太郎はそうまくし立てると大股で玄関へ向かった。
「待ちなさいよ! 私にはね、私の立場ってもんがあるのよ!」
「ああ、そうでしょうね!」
光太郎はスニーカーをつっかけると、踵ををふんずけたまま出ていってしまった。
ソファーの上には、「お泊まりセット」が置かれたままだった。
「私の部屋に私物を置いていかないでっていつも言ってるでしょ!」
イライラ任せにソファーを蹴り、誰もいなくなった玄関に向かってそう怒鳴りながら光太郎を追いかけようとして、ふと、テーブルに置いてある絵に目が止まった。
それはさっきから光太郎が、沢木の万年筆で描いていた漫画だった。
ミサリン姫に襲いかかるサワッキー。
その前に立ちはだかり、「姫に手を出すな!」と、必殺パンチを繰り出そうとしているヒーロー。
むかし懐かしい、光太郎の描く「ピカちゃんマン」だった。
スガモンの手下の妖怪ミサリンではなく、「ミサリン姫」を脇に抱えて、城門を破って外に出て行くピカちゃんマン。
ぼんやり見ていると、そっと玄関が開く音がして光太郎が顔を覗かせた。
「そのバッグ、返して」
仏頂面でドアの隙間からぐいと腕を伸ばした光太郎を見て愛しさがこみあげる。
そうだよ喜和子、わたしは光太郎がかわいくてたまらない。
喜和子ならこんな時どんな展開を想像するんだろう。駆け寄ってドアを開け、抱きついたらいいんだろうか? 突っ立っている光太郎を見ながら考えていたらなんだか可笑しくなってきた。
「どうしたの? センセ、 反省した?」
扉の向こうで光太郎が腰を折り曲げるようにしてわたしの目をのぞき込んだ。すいっと心の底からすべてをすくいあげられそうになる、あの瞳だ。
もしかして光太郎は、ずっと昔からそうやって、私を扉の外へと誘い出そうとしてくれていたんだろうか。
もっとちゃんと向き合えよ……か。
「飛安の鯛焼き」
「え?」
「明日、一緒に買いに行こう」
「明日って、とげぬきの縁日だよ。めちゃくちゃ並ぶよ?」
「いいじゃない。たまには甘いのも食べたいのよ」
ついでにどこかでマグカップをもうひとつ買おう。
思い切りチープなやつでいい。食器棚に並べよう。
そのひとつから、……いったい何がはじまるだろう。
先のことを考えかけて、やめた。光太郎を前にしてギュッと押さえていた玄関のドアが重くて熱かった。手を離せばまた、自然にバタンと閉まるんだろうか。
淀んでいた空気が逃げるように外へ流れていく。
(おわり)
最後までお読みいただき本当に本当にありがとうございました。
あなたの今日にたくさんの小さなハッピーがありますように!