25時、取り残された今日。大好きなバンドの話。
現在時刻。25時15分。
25時という表し方が、個人的にはとても好きだ。
眠れない夜には、いとも簡単に時計は回ってしまう。
回りきって一番上に戻ってきて、一日は終わり、また始まる。またゼロからのスタートである。
だけど、私はまだ今日に取り残されている。時計の針が回ってしまっても、私はまだ、終われないし始まることもできない。
今日でも居られないし、明日にもなれない、はみ出した時間。
そんな時間に暗くなった部屋を見つめていると、今日から、ひいては世界から取り残された気分になる。
24で終わりきれなかった、はみ出した時間。今日にしがみついて、今日との決別を放棄した時間。不規則的で、罪悪感と少しばかりの優越感を含んだこの時間が好きだ。
今日は外から夜を楽しむ人々の声が聞こえてくる。
静かな夜には少しばかりそぐわない声が、今まさに今日を終えようとした私をこの世界に引き戻したのだった。
一度でも耳から頭の中へ彼らの発する音が入ってきてしまえば、それはちょうど、コーヒーに溶けて混ざっていくミルクのように私の脳を侵食し、夢の世界へと変化しようとしていた私の脳に無慈悲にも現実を混ぜこむ。
否応なく現実へ引き返してこなければなくなった私は、明日の予定も頭の片隅に置いてこうしてはみ出しの25時を楽しむことにした。
こんな夜には、音楽を聴くのがいい。
流すのはいつも、大好きなバンドの曲。
FINLANDSという、バンドの曲。
塩入冬湖さん。彼女がFINLANDSの曲に命を吹き込んでいる。
私は冬湖さんの言葉がとても好きだ。
とても好きだなんて言葉じゃ表せないくらいに好きだ。
人はこんなにも言葉を美しく扱うことができるのか、とFINLANDSの曲を聴くたび思う。
曲を聴き終えたあとはいつも、小説を一冊読み終えたかのようなときめきが胸をいっぱいにする。
冬湖さんの言葉は具体的であるようで抽象的であって、容易に噛み砕いて理解できるものではない。そんなところが好きだ。
思えば小説も、誰もが理解できるハッピーエンドよりも100人が読めば100通りの解釈ができるような、そんな物語が好きだった。
冬湖さんの書く音楽は、そんなものだと思う。
私はいつも曲を聴きながら、私自身の世界で、私なりの情景を思い浮かべる。
彼女が言わんとしていることを、理解したくて、自分ができる限りの想像を思い巡らせてみる。
だけれど、やっぱりそれは難しいことで、私には私の世界があるのと同じで、彼女にも彼女自身しか持ちえない世界があるのだから。
だけれど、それでいい、と思う。
彼女の紡いだ言葉を追って、音に身を任せて、彼女の言葉を解釈しようとする。彼女の世界に寄り添おうと試みる。その試みの先に、私のつくる世界がまた出来上がる。
その営みが、音楽を聴くことなのではないかと思う。
あんまり上手くは言葉にできないけれど。
私のFINLANDSとの出会いは、「UTOPIA」という曲だった。
この歌詞、そして合わせて流れるメロディーに私は、恋に落ちてしまった。一目惚れだった。一聴き惚れともいうべきだろうか。
冬湖さんの選ぶ言葉ひとつひとつがどこか官能的で、儚くて、美しくて、この曲に出会ってからは、いつもどこか寂しさを感じる朝に、不安と孤独が襲ってくる夜に、この曲は私を救ってくれる。
ユートピアであってもまだその不確かで幸せな世界に縋っていたい。
それでもいいのだと思う。
この曲の、私なりの解釈をここで話すには、私の言葉はまだ未熟すぎる。
いつか彼女の曲を、彼女の言葉を、音楽を、私なりの言葉で解釈してみたい、と思う。
それが私がこうして文章を書いている一つの理由であり、私の夢なのである。
もうそろそろ夢の世界に足を踏み入れたいところだが、外の彼らは夜の終わりというものを知らないみたい。
今日だけはもう少し、このはみ出した25時を楽しんでいよう。
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