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なぜ人は自分を探しに旅に出るのか


私は、絶賛「自分探しの旅」にでています。

異国の地で、【自分とは何か】だなんて哲学的な問をたて、毎晩のようにその答えをノートへ書き込んでいます。

私とは何か、私はここで何をしたいのか、私は将来どうなりたいのか、、、
考えれば考えるほど堂々巡りです。


自分と日々対峙する毎日。
そんな時、彼が私にこんな事を言いました。

── 自分探しなんてものはできないんじゃないかな。だって、自分は自分でしかなくて、これまでつくりあげてきたそのものが既に自分自身なのだから。

この言葉は、なんだかとても腑に落ちました。

自分自身、ここに存在する私というものは、これまでの経験がつくりあげた私なのですから。

とは言っても、自分探しの旅真っ最中の私ですかから、自分探しはできないわけではないと思うのです。
しかし、ここで一つ不思議に思いました。



なぜ人は、「自分探し」と称して慣れ親しんだ環境を飛び出し、旅に出るのでしょうか?


私なりに考えてみると、多分、それは
これまで積み上げてきた自分というものを知るため
なのだと思います。

私は案外、私というものが一体なんなのか知らないものです。
育ってきた環境、これまでの経験、自分は意識していなくとも、たとえ覚えていなくとも、それらは現在の私に何かしらの影響を与えています。

それらを知ることこそが、自分探しの正体なのだと思うのです。
そして、なんだかそれは「自分探し」というよりは「自分見つけ」というほうがしっくりきます。


同じ環境、同じ価値観の人間関係では、自分の考えや意識が埋もれて見えなくなります。
だから人は、別の世界へ飛び出すのです。
異なる環境、多様な価値観、それらに囲まれてはじめて人は自分のあたりまえがあたりまえではなかったことを知るのです。

あたりまえを疑ってはじめて、人は自分と向き合うようになり、
そして自分自身との対話を重ねることで自らの深淵に到達し、自己の理解を深めていくのだと、そう思います。


したがって、自分探しの旅とは

外へ自分にとっての何かを探しに行くというよりむしろ、

自分の中の、見えていない自分を引き出すきっかけと出会うために外の世界へ飛び出す。



と言うほうが近い気がします。
やっぱり「自分探し」というよりは、「自分見つけ」だなあ、、と感じてしまいます。


ここで一つ、私の「自分見つけ」の例を、、、


私は、日本にいた頃、
「別の言語を使って会話をすること」に楽しさややりがいを感じ、留学を決意しました。

しかし、実際に留学にきてみて、別の言語での会話にもちろん喜びは覚えつつも、次第に、自分の気持ちを容易に伝えられないもどかしさを感じ、楽しさを感じられなくなりました。

一方で、日本語での友人や家族との会話に、より価値を感じるようになりました。自分の心情や考えを言語の壁を介さずに伝えられる喜びを改めて知りました。
そして、日本語の奥ゆかしさを改めて実感し、留学中にも関わらず、日本文学や詩に触れるようになりました。


ですが、次第に、留学しているのに語学の学習もせず、日本文学ばかり読み漁る自分に嫌気がさしました。
そして考えてみました。なぜ「別の言語での会話」に楽しさを感じられなくなってしまったのか。


すると、実は私は、「別の言語の会話」に限らず、

「言葉を介して人と理解し合い、言葉を通して自分を表現し、相手を知ること。」に喜びを感じていたのだと気がつきました。


日本にいた頃は、別の言語を使う場面はそこまで多くありません。
簡単な日常会話と、少しの雑談さえできてしまえばそれで十分でした。
だからこそ、相手との少しの交流だけで理解し合う喜びを感じましたし、言葉の壁をこえて会話ができたという達成感も比較的簡単に得ることができました。
さらに、日本では、日本人の友達との会話が大半であり、他言語での会話は私にとっておまけでしかなかったのです。

しかし、留学に来てしまえば話は別です。
毎晩のように、互いの考えを語り、笑い合った日本の友はもう近くには居ません。
会話のほとんどを、他言語で話さなければなりません。
そして私は、哲学的、抽象的な話題を出して、考えを交わし合うことに喜びを感じる人間でした。
でも私には、それらを語れるほどの語彙力も聞きとる能力も持ち合わせていません。
異国の地で友ができても、話すのはいつも次の授業や課題のこと、空腹具合や眠気の程度など、表面的でありきたりな話題ばかり。

他言語での会話に楽しさを感じられなくなったのは、これが原因だったのです。


原因が解明できたおかげで、今はこちらの友達とも抽象的話題を語るべく、一層力を入れて語学学習に励んでいます。
また、言葉で自分を表現することに魅力を感じ、こうやってnoteもはじめてみました。
一日数十分でも本を読む時間をつくり、日本語、他言語ともに表現力を高められるよう精進しています。


この経験は私にとっての自分見つけに成功した例でした。

私が何に重きを置いていたのか、私が本当に求めていたものは何だったのか。
この経験を通して知ることができたのだと思います。



まとめると、

自分探しもとい、自分見つけで大切なのは、
【外での出来事やきっかけを自分の中で噛み砕き、自分ととことん向き合うこと】。

【これまでつくりあげた自分というものを分析・解釈し、掘り出していく営み】のことを「自分探し」というのだと私は思います。


最後に、「自分」というものがわからないあなたへ。
自分なんて、そもそもわからないものなのです。
自分自身ですら、自分のこと全てを知っているわけではありません。
だからこそ、「自分」が何なのかわからなくなってしまっても、焦らなくていいし悲しまなくてもいい。
そんなときは、一歩外へ出てみましょう。
自分という不確かな存在を受け入れ、まだ見ぬ価値や事象を求めて歩き出しましょう。
そして、歩いた先でまた、内なる自分と会話する。
すると、隠れていた自分が、ひょっこり姿を表すかもしれません。

「自分」がわからなくたっていいのです。
(ああ、なんだか自分は自分の中からまだ出てきたいわけじゃないのかなあ、)くらいに思っておけばいいのです。

いつか出会える、まだ見ぬ自分との出会いを楽しみに、不確かな自分のままでも、今日を生きていけばそれでよいのだと私は思います。

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