息が詰まりそうな、なつかしい夏。

こんにちは。
さかなもん。です🐟

2023年7月6日に下書きとしてタイトル未定のまま書かれていたものがあったのでそのまま出してみようと思います。

読み返してみると、息が詰まりそう。
まだこの時はひきこもりから無理やり復学しただけで、毎日大学やめよう、てことばかりを考えていたなあ。なんて。

この頃は、現実逃避のために、自分と同じような人のnoteを見まくってたり、Twitterのネガティブツイートばかり見漁っていたなあ。

ひきこもりから復学少女(21)のリアルを、あくまでもひとつのケースとして、見ていただけると幸いです。

ではでは、2023年7月6日のさかなもん。の世界へ、行ってらっしゃい!!👋
(テーマパーク風)

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こんにちは。

さかなもん。と申します。

坂口恭平さんの継続の技術というnoteを読んで、言葉が次々に出てきてて書いているのが楽しい!って思っているのが読み手にも伝わってきて、ああ、私も坂口さんのように

坂口恭平さんの文章はなんだかほっこりする。トゲがない。それは坂口さん本人の人柄や坂口さんの周りにいる人々が素敵な人ばかりだからそのような文章が書けているのだろうなあと思う。なんだろう、小川糸さんの小説と似たようなものを感じる。素敵な人の共通点 人とのつながりを大切にする 物に愛着を持って長いこと使う だと思うなあ。どちらも継続することは難しいことなのだけれどそれを普通にできているということは優しさやいろいろな考え方を受容する力とかそういうものが積み重なっているのだと思う。
人が怖いよう。それは自分自身が人のことを馬鹿にして生きてきたから。対話することを拒んできたから。大学を辞めて私はどうするつもりなのだろう。誰とも話せなくなっていて、社会的信用はなく。そんな状態でどうやって今後生きていくつもりなのだろう。学ぶことを諦めてしまっている。学ぶことでしか人は成長できないというのに。それで負の感情ばかりを募らせて家族にすごく悪影響を及ぼしてしまっている。なにをしているんだろう。そんなことを自分に問いかけても自分からは何も返ってくることはなく、ただただ時間だけが過ぎていく。わたしに残ったのは汚い感情とちょびっとだけできるタイピングだけ。何も生み出していない。金食い虫である。

なぜわたしは授業に出ないのか
なんとなくの気分。行きたくないの気持ちと嫌われているのだろうなあという思い込みの気持ち、将来が怖いという気持ちとかいろいろなものが積み重なってメンタルが安定していなくて行かなくて余計に自分自身を苦しめて詰む方向に自ら行ってしまっている。私は何がしたいのだろう。自ら身体をゆがめ、顔をゆがめ、周りを見えなくし、いろいろなことを自分でできないように仕向け、周りの反感を買い。悲しい気持ちと罪悪感と自分自身への怒りの気持ちと。いろんな負の感情だけが積み重なってゆく。そして、ますます社会的信頼がなくなってゆく。人が私の周りからいなくなってゆく。私が頼ることができるのは、もう、親とカウンセラーさんだけだ。脳の構造がわたしはおかしいんだ。人と生きていくことが向いていない人なんだ。わたしだってみんなと仲良くなりたいんだ。みんなのように笑顔でわらって素敵な人になりたいんだ。その理想と現実のギャップに苦しんで到底その理想には達することができないと悟ってしまったとき私はすべてのことを諦めてしまったんだ。幼いころから精神的に弱っちい私に対して、おばあちゃんは「なにごとも経験」「だめでもともとなんやでやってみな」「今気持ちがおちこんでいて一番下にあるんだったらもうそこから上がるしかない」って私を鼓舞する言葉、励ましてくれる言葉をたくさん言ってくれた。たくさん泣いている私に寄り添ってくれた。おばあちゃんは強い人だ。私のお父さんを含めて3人の男の子を育てながら毎日夜遅くまでお仕事もして。家事もして。だからおばあちゃんにはいろんな人への優しさがあるんだろうし包容力とか強さがあるんだと思う。いろいろなことを経験してきた人はやはり強い。何事も乗り越えていかないと人は強くなれない。おばあちゃんの強さや優しさを踏みにじっているのは私自身だ。わたしも学生のころはおばあちゃんのように強くて優しい人にあこがれを持っていた。そうなのか?今までいろんなことを決めつけて昔の記憶もなくしてやる!とか思ってたせいで昔の自分の記憶が思い出しづらくなっている。一度自分自身の記憶について掘り起こしてみよう。
わたしがあこがれを持っていた人にはアイドルだったり私の近くにいたコミュニケーション能力が高い子が多かったように感じる。アイドルでは欅坂46の石森虹花ちゃんにあこがれを持っていた(?)推してただけか。あこがれってなんなんだろう。憧れとうらやましさは同じなのだろうか。私が今まで経験してきた感情は人とあまり関わってこなかったから薄ぺらいものが多いのかもしれない。かわいい子へのあこがれ、自分の好きなことをつきつめて楽しそうにしている人のあこがれは今持っている。わたしが高校生のころまでは近くにいる素敵な人たちに対して友達であるという認識やその人のことを深くまで知れていなかったことからあこがれという感情までには至らなかったのかもしれない。今はその友達も大学生になって活動を見ているとすごく楽しそうに自分の好きを追及している感じがしてハッピーオーラが出ている。そこで初めてあこがれという感情をその友達に対して抱いた。あこがれというのは離れてみて初めてわかるものであるのかもしれない。もしくは、自分も同じ状況に立った時にできていないことができていることに対して抱く感情ともいえるのではないかと思った。わたしは言語化することが苦手だ。小学校の時から高校まで、誰かに話しかける時はなんて言おう、とずっと考えて考えて、この言葉を言うぞ!言うぞ!と思ってようやく一言くらい話しかけるという感じであった。だから言葉が次々と出てくる人は見ていてうらやましいし尊敬する。わたしは自分というものがない。すぐ人に流される。ミーハーである。これは母の影響を受けたのかもしれない。母はTwitterが好きでよく見ている。流行っているアニメに敏感ではまったアニメがあるとそのグッズや服を毎日のように買ってきていた。わたしは幼いころからあまり母のことが好きではなかったのでその行動をわりと冷ややかな目で見ていたのだが、影響されているところはあるのかもしれない。とりあえずの自己防衛をすることで自分を守ってきたのだ。何を書いているんだろう。よくわからない。自分の過去を美化したい。自分のライフストーリーをきれいなものにしたい。理想と現実はどこまでもギャップがありますね。中学生の時に好きだったHey!Say!JUMPの曲「I am」(調べてみたらこれはわたしが高校生の時の曲だった)の中にも「理想と現実はどこまでもアンバランス 近づけば離れていくんだ」という歌詞がある。まさにその通りだと思わせてくれる。引きこもり状態になってから理想と現実のギャップがさらにさらに広くなってしまった感じがして怖い。なぜなら、わたしの中の理想が「テレビの中にいるばりばり家族のために働いている主婦」(近藤千尋さんや藤本美貴さんなど)になってしまったからだ。わたしには、友達も夫も子どももいないのに家事や育児をこなしながらも仕事をしてキラキラ輝いている芸能人の方に理想を抱いてしまった。「わたしもまだ本気を出していないだけでこの人たちみたいになれるんだ」とかいう幻想を抱いてしまった。ひとりで美容院行くことすら怖いのに。そのような幻想の中で生きていて現実ではなにもできていな自分であるので余計にそのギャップに苦しみ、現実を受け入れたくないという方向に動いてしまっているのだ。そんなわけでテレビを見ていても苦しい、学校に行っても社会的信用がないために苦しい、他の場所に行っても挙動不審を発揮してふらふらしてしまうため段取りよく行動ができずに苦しい。というか多分周りから変な目で見られている。家で自傷行為をしてしまう。余計に苦しくなる。自分なんて嫌いだ、いなくなってしまえと思う。もうこのループからは抜け出せないのではないか。まだ21歳。若い。やり直しはいくらでも効くよ。自分の好きなことを探してみよう。生活習慣を正そう。運動をしよう。目の前にあることをとりあえずやってみよう。自分の好きなことって何?誰か教えて。好きなことがある人がうらやましいよ。好きなことを人と語り合えている人がうらやましいよ。うらやましいという気持ちが嫉妬心に変わっていって私の心を蝕んでいった。みんな、自分の好きなものがあってずるいよ。人と関わっていてずるいよ。という気持ちになっていった。自分の軸を持っていてずるいよ。となってしまった。ずるいって何なのだろう。ずるいを辞書で調べてみると、「人をだしぬいて自分が得をするような、正しくないやりかただ。わるがしこい。こすい。」と出てきた。(Oxford Languages)辞書的に言うとずるいは、正しくないやり方という意味らしい。とすると、自分の好きなものがあるということは正しくないやり方によってみんな手に入れているのだ。とわたしは思ってきたということになる。好きなものがあるのは正しくない、だめなことなんだと思っているということか。世間的にいえば私の方がずるい人間であるというのに。皮肉なものだ。ずるいと思い続けると自分もずるくなってしまうのかもしれない、言葉とか感情は鏡ってよく言うから自分がずるい人間になってしまったのかな。よくわからんけど。

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