見出し画像

「無駄」について考えたけどまとまらなかった

みんな、きっと心のどこかで「~するだけ無駄」と思っていることがあるかもしれない。
「やるだけ無駄」
「傷つくだけ無駄」
「頑張るだけ無駄」
「努力するだけ無駄」
等々、体力、時間、お金の無駄遣い。

以前の投稿で、震災から10年という節目に初めて東北へ一人旅したことを書いた。
旅費を稼ぐためのアルバイト中や、旅中もどこかで、「一体なんのためにこんなことをしているんだ。この旅は無駄なんだろうか」と考えていた。10万円かそこらを飛行機代や宿代や食事代に使って、以上だ。その10万円の一部は復興を頑張る人たちの生活費になるだろう。

しかし、旅で書いた文章とか、東北で撮った写真とか、全部ただの自己満足で、誰のためにもならないのかもしれない。All in vain. 
復興を応援したいのなら、旅費分の10万円を募金したほうが、よっぽど誰かのためになるんじゃないか?

無駄ってブラックホールみたいだ。すべてがその言葉ひとつに吸い込まれ、あとにはなにも残らない。

「無駄」のつくことわざや、努力が無意味である様を表す言葉はたくさんある。

「無駄死に」
「無駄吠え」
「犬死に」
「骨折り損のくたびれ儲け」
「水の泡」
「焼け石に水」

体力、時間、お金、資源、それらをまとめてリソースと呼ぶと、私たちはリソースを毎日ちょっとずつ消費することで生きている。消費した先に、より良いものができあがると期待しているから、期待通りにいかなかったときに「~するだけ無駄だった」と落胆するのだ。

広辞苑にも、【無駄・徒】とは、「役に立たないこと。益のないこと。また、そのもの。」と定義されている。

だけど、ちょっと待って。非力ながら「無駄」という概念にたいして抗議したい(無駄吠えに終わるかもしれないけど)。

本当に無駄なものってなんだろう、ともう一度考える。広辞苑の定義によると、無駄とは益のないことらしい。益=収益ー費用と簡略化すると、無駄は、費用 > 収益の場合に発生する。リソースを費用とすると、収益は収入、健康、寿命などではかれるだろう。たとえば、毎日10分間のエクササイズを1年続けることで寿命が5年延び、また消費するリソースがエクササイズにかかる10分/日のみだと仮定する。割引率なしの単純計算では、
5(年)x60(分)x24(時間)x365(日)-10(分)x365(日)=268000ー3650=2,624,350(分)の益がでるので、そのエクササイズは無駄ではないということになる。

しかし、物事はすべて簡単な引き算で、益か無駄か決められるほど単純ではない。数字にできない感情や学びという収益はどうするのか。

「一生涯をかけてひとりの人を愛して、別れた」費用は人生分のデート代と時間、だけどその収益は? 「美術館に行って、感動した」費用は入場料と時間、感動という収益は費用より多いのか?

数値化できるものだけ選って、費用対効果的な考え方を推し進めると、ほとんどすべての物事が無駄なのかもしれないと思い、戦慄する。感情や、幸せ、学びなど、単位をもたないものを得るためにリソースを消費することは、本当に無駄なのだろうか。

結論はでないけど、今の私は「無駄なもの、どんとこい」という気持ちでいる。「無駄」という私の背後に迫るブラックホールに負けじと足を前に進めることで、ほんの少しでも、良い方向に何かが変わるかもしれないと信じて。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?