ワーパパとツァラトゥストラ

こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。


ツァラトゥストラ

哲学ニーチェが書いた書籍に「ツァラトゥストラ」というものがあります。
「ツァラトゥストラはこう言った」「ツァラトゥストラかく語りき」とも訳されています。

今回も、100分de名著シリーズの解説書を拝読しました。

ツァラトゥストラは、物語の主人公です。
彼は30歳のときに山にこもった隠者だったのですが、その山ごもりの中で得た知恵を人々に与えようと思い、山を降りて説教を始めます。
物語を進めながら、ニーチェは自分の考えを読者に伝えていく構成になっています。

ちなみに、ツァラトゥストラは「ゾロアスター」のドイツ語読みだそうですが、ゾロアスター教とは全く関係がないそうです。

ルサンチマン

ルサンチマンは、うらみ、ねたみ、そねみを表す言葉です。
社会が悪い、親が悪い、先生が悪い、などといって自分以外の何者かのせいにすることも該当します。
また、タラレバもルサンチマンに該当します。

自分の苦しみをどうすることもできない無力感。
それを認められないという怒りの矛先をなにかに向けて、気を紛らわせるという心の働き。
それがルサンチマンというそうです。

このルサンチマンがあると、「自分の人生をこのように生きる」といった主体的に生きる力が失われてしまいます。

貴族的価値評価法と僧侶的価値評価法

ニーチェは、2種類の価値判断方法があると主張します。

  • 貴族的価値評価法:「よい・わるい」

  • 僧侶的価値評価法:「善・悪」

貴族的価値評価法は、自分の能力が自発的に発揮された時に感じる自己肯定感を示しています。
スポーツなどの様々な活動で活躍できた時、自己陶酔型するような価値観を、貴族的な価値評価となります。
自分をカッコいい、力強い、面白いと感じることが貴族的だということです。
貴族的な価値評価が低いというのは、カッコわるいとかツマラないとかの感覚です。

僧侶的価値評価法は、神からみて正しいかどうかを指します。
善悪の基準は、宗教的価値観と照らし合わせての善悪に合致するかどうかです。

ニーチェは、僧侶的価値観の背後にルサンチマンがあると言います。
現実における階層的な弱者は、現実世界では階層的な強者には勝つことができない。
そのなかで「私は選ばれた者であり、私達は救われる。あいつらは地獄に落ちる。」という考えに行き着く。
このように強者を否定して自己肯定することが僧侶的価値観であるといいます。

人間には貴族的なところが元々あり、それは自発的になにかを行う創造性を持っていることを示しています。
それが僧侶的な宗教価値観にとらわれると、人間が本来もっている創造性が抑圧されてしまうと、ニーチェは唱えました。

ニヒリズム

時代が進み、科学の革新が起こっていくに従い、宗教的な価値観が薄れていきます。

そこでニヒリズムという考えが生まれます。
ニヒリズムは、既存の価値観が崩壊することで、人々が何を目指すべきかわからなくなった状態です。

ニヒリズムとは何を意味するか?
至高の諸価値がその価値を剥奪されること。
目標が掛けている。
『何のために』の答えが欠けている。

力への意思

ここでの至高の価値は、人々が日々拠り所にしている価値観を指しています。
宗教的価値観だけでなく、様々なイデオロギーも該当します。

例えば高度経済成長時代の日本においては、大企業に勤めて終身雇用・年功序列のなかでマイホームやマイカーを持つことが一つの価値観でした。
とにかく工業製品を作れば売れるという時代では、ガムシャラにものづくりに励み、その結果としての豊かさを目標にしていました。
そして高度経済成長の終わりと共に、その頃の価値観が崩れていき、目標を失っていきます。
このようして目標を失い、どのように生きていけばよいのかわからない状態をニヒリズムと言います。

末人

ニヒリズムが蔓延する世界では、憧れを持たずに安楽を第一にする人が現れます。
情熱を持たず、労働は適度にこなし、面倒を避け、貧しくも富んでもおらず、日々を安寧に暮らすことだけを望む人。
そのような人々を、ニーチェは末人と呼びました。

末人を作り出すのは、何かを求め実現しようとすることに対する絶望だと言います。
何をやっても結局無駄で何にもならないなら、最初から何もやらず、期待しない方がいい。
そういった絶望が末人を生み出します。

超人

ニーチェは末人に対抗するものとして、超人という存在を挙げます。
超人は、創造性に溢れ、ルサンチマンやニヒリズムに陥ることのないような人間を指しているようです。

超人への過程を、ニーチェは三段階に分けて表現しています。

  • ラクダ

  • 獅子

  • 幼子

ラクダは、自ら求めて重い荷物を担おうとする者です。
獅子は、既存の価値観に対して「自分はこうしたい」という意思をもって立ち向かう者です。
幼子は無垢であり、無心に遊ぶ者です。
超人は、このなかの幼子の段階に該当します。

例えば「誰かこの重要な仕事をやってくれないか」と話があがったときに、率先的に手をあげるような人物がラクダです。
求められたものに応えつつ、その中でのチャレンジを楽しんでいきます。
ラクダは仕事を続けていく中で「ここはこうであったら良いのに」と既存のものに批判を覚え、自らの意思のなかであるべき姿を見定めて、それを実現するために行動し始めます。
この時にラクダは獅子となります。
そして獅子は行動を続けていく中で、いつしか遊びのように、無心で創造力を発揮していくこととなります。
このとき獅子は幼子となるのです。

これは、武道における守破離にも通じます。
始めは型を守り、いずれその型を破り、そして型から離れて独自の道に進むことに似ています。

永遠回帰

ニーチェは究極の絶望状態として「永遠回帰」(永劫回帰)という考えを持ち出します。
宇宙を非常に長い時間で捉えた時に、すべての物理法則が現在と一致する状態が起こりうるとします。
この時、今の自分の人生と完全に一致する人生を、再び歩むことになります。
しかも一度だけでなく、無限に自分の人生を繰り返すことになります。

そのようなことになれば、人間は無力感に苛まれて、絶望してしまいます。
しかし、ここでニーチェは、無限に繰り返されるのであれば、後悔せずに自分の人生を生きるしかないだろうと言います。
そのように、自分の人生を肯定できるように生きることが大事だとニーチェは説きました。

ワーパパとツァラトゥストラ

ワーパパの普段の生活は、おおまかには家事・育児に8時間、仕事に8時間、睡眠・休暇・勉強で8時間といった時間割になっているかなと思います。
多少の誤差はあるとはいえ、何かしらの創造力を発揮する時間は限られているケースが多いように思います。

そのうえで、自分の人生を肯定できるように生きていくことが大切だと感じました。
タラレバを言うのではなく、時間の使い方だけでなく、優先度を見直していくことが大切です。
子育てで忙しいとか、仕事が忙しいとか、そういったものは事実としてあります。
それ以外の時間を何に使うか、家事や仕事の時間をどう圧縮するか、子育てや仕事をどう充実させるか。
そのようなことに意識を向けていくと、人生を肯定しやすくなるようにも思えます。

永遠に繰り返さないといけない人生なら、何度繰り返しても楽しいと思えるような人生にしたいと思います。



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