書籍:別冊NHK100分de名著 ナショナリズム

こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。


別冊NHK100分de名著 ナショナリズム

100分de名著シリーズの「ナショナリズム」を拝読しました。

本書では、ナショナリズムをテーマに、以下の4冊の書籍の内容を解説しています。

  • 想像の共同体(ベネディクト・アンダーソン)

  • 君主論(マキャベリ)

  • 昭和維新試論(橋川文三)

  • 方舟さくら丸(安部公房)

これらを通して、「国民」や「国家」について考えていく内容となっています。

今回、ベネディクト・アンダーソン著「想像の共同体」という書籍の解説部分からの学びを記載します。

「想像の共同体」では、ナショナリズムの成り立ちについて語っています。

国民とは想像の政治共同体

「想像の共同体」では、国民(ネーション)を以下のように表しています。

国民(ネーション)とはイメージとして心に描かれた想像の政治共同体である。

このとき、そもそも、すべての共同体は想像されたものです。

家族も、想像の共同体です。
ペットを家族に含めるのか、単身赴任中の親や、一人暮らし中の子供は家族に含めるのか。
本人たちがそうだと思えば、家族の中に含められますし、そうでなければ、家族の外となります。

この範囲を考える時に、毎日顔を合わせるのか、同じ家に住んでるのか、助け合いの関係にあるのか、などの直接的な関係があります。

国民という共同体は、他の共同体と大きく異なる点として、「構成する人たちは互いに直接合うことはない」という特徴を持ちます。

他の共同体は、直接の具体的な関係性によって「お互いが仲間だ」という意識を持ちます。
一方、国民の場合は、ただ想像の中でのみ、強い同胞意識が成立しています。

国民の三つの特徴

「想像の共同体」では、想像された共同体としての国民について、三つの特徴が挙げられています。

  • 国民は、限られたものとして想像される。

  • 国民は、一つの共同体として想像される。

  • 国民は、主権的なものとして想像される。

限られたもの

国民は、人類全体とは一致しません。
国民は別の国民との境界を持ちます。

境界がある共同体ということは、「限られたもの」ではない共同体、つまり、境界がない共同体との対比となります。

たとえば「限られたもの」ではない共同体の代表は、世界宗教でしょう。
客観的には世界中がキリスト教徒ではないため、境界があるように思えます。
しかしながら、キリスト教の世界観においては、キリスト教が人種・民族・国籍・言語といった境界線を超えて開かれているという教えがあり、キリスト教が布教を使命としています(宣教の命令という)。
ここから、キリスト教は境界線がないものとして想像される共同体となります。

一方、国民は境界線を持ち、「限られたもの」として想像されるという特徴を持ちます。

一つの共同体

国民は、同じ国民同士を平等なものとして想像します。
平等な同胞として、想像されます。

身分制は、国民という考えとはコンフリクトします。

実際には、近代において国民が形成される過程で、それ以前の身分制や階層構造は残ります。
カースト制度やアパルトヘイトは、国民が形成された後も残りました。

しかし、これらの階層構造を小さくしようという方向に力が働きます。

主権的なもの

主権という概念は、かつては神学由来のものでした。
中世ヨーロッパにおいては、主権は神に属しており、それが王に委任されていたという王権神授説が唱えられていました。

しかし、その後に、宗教が相対化され、啓蒙思想を通して、主権は国民に帰属するものとなりました。

国民というのは、生活様式などの文化的なものの共通性を見出した共同体でもありますが、それだけではなく、政治的に主権を有するものとして想像されています。

ナショナリズムの三つのパラドクス

「想像の共同体」では、ナショナリズムに関する三つのパラドクスを指摘しています。

普遍性と固有性

第一に、社会文化的概念としてのナショナリティ(国民的帰属)は形式的普遍性をもつのに、それを具体的に見ると、手のほどこしようがないほど固有性を持つ。

「ナショナリティ」と言った時に、それがどのようなものを指しているかはイメージできるが、それの個別ケースを見ると全く異なっている、と言えます。

例えば、「日本人」性や「ギリシア人」性といったものを想像したときに、それらは全く異なる固有性を持っています。

他のカテゴリーで見た時に、例えば大学生であれば、慶応大学生と早稲田大学生はそれぞれ特徴や傾向はありますが、ナショナリティほどにかけ離れてはいません。

このナショナリティという概念事態は普遍性を持ちますが、個別具体のケースでは共通項が見出しづらいというほどに個別性を持ちます。

客観評価と主観評価

第二に、歴史化の客観的な目には国民(ネーション)は近代的減少に見えるのに、ナショナリストの主観的な目にはそれは古い存在と見える。

歴史的には、国民が成立してから長くとも200年とすこし程度です。
世界史の中でも先駆けとして重要視されているフランス革命は18世紀後半です。

しかし、ナショナリストは、国民をもっと古いものとして捉えます。

日本人の場合は、日本人は縄文時代からあったものとして捉えます。
しかし実際に、国民としての日本人が成立したのは明治時代と言えます。

ナショナリストは、国民のルーツを、国民の成立よりも古くからあったものとして捉え、その古さに愛着を持ちます。

思想家の不在

第三に、ナショナリズムは非常に大きな政治的影響力をもったのに、哲学的には貧困で支離滅裂であり、いかなる偉大な思想家ももたない。

歴史上、様々な思想家がいます。
カール・マルクス、ジャン=ジャック・ルソー、マックス・ヴェーバーなどの歴史上の偉大な思想家が、様々なイズムを支えています。

一方、ナショナリズムにおいては、それを応援する偉大な思想家は存在していません。

しかしながら、思想家が不在であるにも関わらず、その政治的影響力は非常に大きいものとなっています。


以上、100分de名著シリーズ「ナショナリズム」の中の「想像の共同体」パートから、一部ピックアップして記載いたしました。

自分がその中にいながらにして、よくわからないものがあります。
例えば、「資本主義」や「民主主義」に我々は生きていますが、それらが何かということを完全に理解しながら生活しているわけではありません。

「国民国家」もそようのうなものの一つであり、それを構成する「国民」や「国家」というものを理解しなくても生活できます。

それらを相対化して見て理解を深めていくと、自分が何かということがよくわかってくるような気がします。

こういったものを学ぶには、コテンラジオが非常に良いと思っています。

それに加え、自分でも興味があるものを学んでいくことも重要だなと思いました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?