書籍:なぜ働いていると本が読めなくなるのか

こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。


なぜ働いていると本が読めなくなるのか

三宅香帆さんの『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』を拝読しました。

最高でした。

著名人のレコメンド

宇野さんや篠田さんのnoteでオススメされているのを見て、読み始めましたのですが・・・

ものすごく愛のある、勇気をもらえる内容だと感じました。

ラブレターを読んでいるようでもあり、素敵な映画を見ているようでもあり。
読み終わった後は、脳内で勝手に謎のエンドロールとEDテーマが流れていました。

(最高すぎて壊れました)

この書籍のベクトル

『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』というタイトルから、恥ずかしながら、以下のような内容かなと邪推しておりました・・・

  • 本を読まない現代人への警告

  • 短い時間で本を読む方法のようなハウツー

  • 働きながらでも本を読むべきというマッチョイズム

  • インスタント教養と呼ばれるものと本から得られる教養との二項対立

しかしながら、そういった「わかりやすさ」ではなく、「複雑さ」との向き合い方についてのお話しだと感じました。

この書籍の流れ

『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』では、明治時代以降の、「労働」と「読書」の関係性を追っていくところから始まります。

特に、「立身出世」「自己啓発」「アイデンティティ」といった文脈の中で、「労働」がどのような立ち位置であったのか。
そして、そのために「読書」がどのように機能したのか。

そのような時代と我々の認知の変遷が語られます。

これがそのまま、我々が今生きている今(2020年台)のマインドセットが何を下敷きとしているのかの理解に繋がります。

我々が「何に囚われているのか」ということがわかります。

そして最終章の著者の提言に繋がります。


現代社会における非常に重要なお話しだと実感しました。

ここに、自分なりの学びを書き溜めたいと思います。

経済合理性が重要視されている社会

現代社会では「タイパ」「コスパ」という言葉が溢れています。

教養という言葉も、「年収をあげたり出世したりするために必要なもの」と解釈されているケースもあります。

「答え」を知るための「情報」を、以下に効率よく摂取するのかが重要という風潮があります。

つまり、「経済合理性」があるものが重要であり、それに対してリソースを割く。

それ以外のものは「あやふや」で「コントロール不可」で「不確実」なものとして、役に立たないものとして切り捨てられている時代とも言えます。

それでも複雑性は排除できない

しかしながら、実際の世界や社会はめちゃくちゃ複雑に成り立っています。

科学が発展しても、未だ明らかになっていないことはあります。
歴史上の未来予知も、めちゃくちゃ外しまくっています。

人間の感情も、うまくいくビジネスも、「これをやったら正解」というものはありません。

「あやふや」で「コントロール不可」で「不確実」なものであふれています。

教養はノイズ

教養といえるものは、短期的に「経済合理性」に寄与するとは限りません。
※長期的には寄与するケースが多いと思いますが

歴史、哲学、文学、音楽といったものの学びを深めたからといって、それで翌年の年収があがるということは現代社会ではほとんどないでしょう。

教養は、経済合理性を追求する際には、ノイズとなります。

短期的に考えれば、ハウツーや資格の方が効果的と考えられるためです。

ノイズを除去した、わかりやすい答えを求める方向に、強いインセンティブが働きます。

教養は他者の文脈

しかし、私達は、そのノイズを完全に除去することはできません。

先ほど述べたとおり、私達は「あやふや」で「コントロール不可」で「不確実」なものであふれています。

その代表格は、「他者」という自分とは異なる存在でしょう。

書籍『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』では、以下のように表現しています。

教養とは、本質的には、自分から離れたところにあるものに触れることなのである。

『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』

「他者」、たとえば歴史上の人物だったり、会社の上司や同僚だったり、友人や家族だったり。
あるいは、特定の時代背景だったり。

その「他者」には、他者の「文脈」があります。

教養は、「他者」の「文脈」に触れることと言えます。

自分から離れたところにある、「他者」とその「文脈」と向き合わないことには、生きていくことは難しい。

ホモサピエンスは、歴史上、そのように生きてきました。

であればこそ、経済合理性の名の下にノイズを排除することに注力せず、より多くのノイズを取り入れるというスタンスが重要と言えそうです。

身体知、レンマ

「わかりやすく言語化する」ということが良いこととされています。
「言語化できないものには価値がない」と言われる場合もあります。

しかしながら、本当にそうでしょうか。

私達には、複雑なものを複雑なまま、感覚で理解するという知性が備わっています。

そのような知性を「身体知」と呼びます。
みんな大好きコテンラジオでは、その「身体知」の重要性を説明しています。

この「身体知」が強い人たちもいます。

そのような特性を持つ方の中には、例えば「ビジュアルシンカー」とも呼ばれる方々もいます。

複雑性を複雑なままとりこむ概念には「レンマ」という名前がついています。

これらは、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』で語られている内容とも強くリンクしています。

ベストセラー作家やインフルエンサーが、「複雑性」の重要性について語る時代となりました。

複雑性を受け入れる生き方

『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』の最終章での提案は、ぜひ、みなさん書籍を読んでいただきたいと思いますが…

「全身全霊」に一つのことだけをやることが、ノイズ(複雑性)を受け入れる余地を廃してしまっています。

かつては、それが良いとされる時代がありました。

男性は、「全身全霊」で仕事に打ち込む。
女性は、「全身全霊」で家庭を守る。

この時代を否定するつもりはありませんが、これが可能だったのは日本の経済成長と人口が右肩上がりだったからと言えます。
その前提が崩れた今、この「全身全霊」にも無理が来ていると思います。

であれば、今はどのような生き方が豊かな生き方となるでしょうか。
(ぜひ書籍を読んでみてほしいです)


以上となります。

最終章も含め、勇気をもらえる内容でした。
そして、個人的に、その提言に対して寄与できる人間でありたいと思います。

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