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「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問題に対しての僕なりの解答

三宅香帆さんのベストセラー新書『なぜ働いてると本が読めなくなるのか』を先日読み終えた。世評通りの力作で、日本の近代史における「労働」と「読書」の関係が手際よく整理されており、とても勉強になった。

この本を通じて、多くの「働いているので、本が読めない」人たちが勇気づけられて欲しいと、僕も思う。もちろん、懸命なる読書家のみなさんは既に100%理解されていると思うが、「読書論」や「教養論」を手に取り、それを読み、SNSに感想を投稿して満足してしまっては、「文化的な自分」という自己イメージを消費するだけに終わってしまう。

せっかく背中を押してもらったのだから、これから「働きながら」本を読みまくっていかないと勿体無い。最初に手にとるべき本は何がいいだろう? ごく自然に考えて、同じ著者、つまり三宅さんが翌月に発売する初の文芸批評本……あたりが妥当だと僕は思う。

さて、宣伝はこれくらいにして、本題だ。僕はこの「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問題を、三宅さんの本を読み、ウンウンと頷きながら同じ問題を別方向から考えていたのだ。

三宅さんの主張を簡単にまとめると、「働いていると本が読めない」のは僕たちが新自由主義的な価値観を内面化し、経済的な自己実現に役に立たない「ノイズ」を嫌うようになったから、に他ならない。そしてこの問題を別の方向から考えていた僕は、こう思ったのだ。「しかし、人間はそもそもノイズを好むものなのだろうか」と。

僕はこう考える。そもそも人間は「ノイズ」を嫌う生き物だ。効率的な情報摂取を生物として好んでいる。しかし、効率的な情報摂取がときにエラーを起こす。それが結果としてノイズとして受け取られる。さらにそのノイズが、その人を不可逆的に変化させてしまったとき、それが結果的に快楽に転化する(ことがたまに、ある)。そして、人間に新しい欲望が生まれる。僕は2年前に、大戦中に敵軍の捕虜になり拷問を受けた結果マゾヒズムに目覚めてしまった(と、解釈もされている)人物についての本を書いたが、僕は人間の読書への、特に三宅さんの言う「ノイズ」としての「教養」への欲望はこれに近いと思う。

要するに人間がノイズ(三宅さん的に言えば「教養」)を求めるのは、怪我や病気のようなもので、この心身のエラーのために僕たちはマゾヒスティックな快感を求め、本を漁っているにすぎない。したがって、僕は新自由主義的なイデオロギーの内面化と「本が読めない」ことの因果関係はあくまで副次的なものではないかと考えている。三宅さんの仕事で整理された労働文化と出版文化の並走は、むしろ「健康な」人をいかに煽って(「仕事の役に立つ」とか嘘をついて)出版社が本を(無理やり)売りつけてきたか、という歴史に他ならない、というのが僕の考えだ。

では、どうするのか。

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僕はもはやFacebookやTwitterは意見を表明する場所としては相応しくないと考えています。日々考えていることを、半分だけ閉じたこうした場所で発信していけたらと思っています。

宇野常寛がこっそりはじめたひとりマガジン。社会時評と文化批評、あと個人的に日々のことを綴ったエッセイを書いていきます。いま書いている本の草…

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