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ワーパパと般若心経

こんにちは。
3人娘を育てている、ベンチャー企業のCTOです。


般若心経

100分de名著シリーズの「般若心経」の解説書を読みました。

般若心経は漢字262文字で構成されたお経です。
般若心経は、玄奘三蔵がインドから唐に持ち帰って翻訳されたものが広く用いられており、日本に渡ってきた般若心経も玄奘訳のものです。

般若心経は、日本において最も愛されているともいえるお経だそうです。
特に、密教と禅宗で重要視されているそうです。
怪談の「耳なし芳一」で使われるお経は、般若心経だそうです。

海外では「ハートスートラ」と呼ばれ、ジョン・レノンやスティーブ・ジョブズにも影響を与えたと言われています。

正式名称は「般若波羅蜜多心経」と言います。
般若はサンスクリット語で「プラジュニャー」で智慧という意味であり、波羅蜜多は「パーラミター」で完成という意味で、「般若波羅蜜多」は「智慧の完成」という意味となっています。
「心経」は大切な教えといった意味合いです。

この解説書は、お経の意味だけでなく、その背景知識を説明しており、非常に分かりやすかったです。

大乗仏教

ブッダが生きていた頃の仏教を初期仏教と呼びますが、ブッダの入滅後100年が経ったあたりから、仏教は大きく上座部仏教と大乗仏教に分かれます。
大乗仏教は、中央アジアを経由して中国に伝わり、さらに日本に伝わりました。

仏教は、悟りを開き苦しみから解放(解脱)することを最終目的としています。
そして初期仏教や上座部仏教では、悟りを開くためには、出家をして仏教集団に入り、厳しい修行を経る必要があります。

これは、在家(家庭を持つ世俗の人)は悟りを得ることが出来ない、つまり、救われることがないことと同義です。
一方、大乗仏教は在家も含めた多くの人を救うことを目的としています。

そして般若心経は、この大乗仏教のお経です。

五蘊

仏教では人間を構成要素に分解して考えます。
それが五蘊です。

色:われわれをなしているものの外側の要素すべて
受:外界からの刺激を感じ取る感受の働き
想:ものごとを様々に組み立てて考える構想作用
行:何かをしたいと考える意思の働きや、その他の心的作用
識:ココロのあらゆる作用のベースとなる、認識する働き

100分de名著:般若心経

「色」は肉体を表し、「受・想・行・識」は心的作用を表しています。

仏教ではこれらに名前をつけて認識します。
そして「私」という確固たるものがあるわけではなく、「私」は単にこの五蘊によって構成されている集合体でしかないと考えます。

十二処・十八界

仏教では、「認識」自体を分解して捉えます。

人体には外界を認識するための感覚器官、いわゆる五感があります。
そして心の働きがあります。
これらを「眼・耳・鼻・舌・身・意」として六根と呼びます。

六根は観測器官であり、それらから観測されるものがあります。
それらを「色・声・香・味・触・法」として六境と呼びます。

この六根と六境をあわせて十二処と呼びます。

そして、これらによって生じる認識を六式と呼びます。

  • 眼識

  • 耳識

  • 鼻識

  • 舌識

  • 身識

  • 意識

十二処と六式を合わせて十八界となります。
世界と人間の間にある、認識器官、認識対象、そして認識自体をMECEにしたものが十八界と言えます。

そしてこれらは初期仏教における重要な考え方とされています。

「色即是空」という言葉が、般若心経で最も有名な箇所とされています。
「色」、つまり肉体、そして、われわれをなしているものの外側の要素すべてが幻・錯覚だと説きます。
このことを「空」と呼びます。

般若心経では、すべてが「空」だと行った後に、五蘊や十八界に対しても「無」と否定します。

五蘊や十八界は、人間が認識できる枠で規定したものでしかありません。
そもそも宇宙は、人間の認識を超えた超越的な法則で動いていると捉えます。

五蘊や十八界は、あくまでも理解を補助するために引いた補助線でしかなく、実際には何もかもが錯覚でしかないというのが「空」と言えます。

五蘊や十八界がメタ認知だと言えると思いますが、それをさらに上位のメタで捉えようとするのが「空」の思想のようです。

初期仏教や上座部仏教は、救いを得るために出家と修行を必要とします。
しかし、多くの人にとってそれは非常に難しいことです。
初期仏教のコンテキストでは、在家の人たちが救われることがありません。

般若心経は大乗仏教のコンテキストです。
在家も含めた多くの人を救うために、一度、初期仏教や上座部仏教における制約条件を無効化する必要があります。
般若心経はまず、初期仏教で重要視された五蘊や十八界に対して「空」であると言って無効化しています。

真言(マントラ)

そしてその上で、「般若波羅蜜(智慧の完成)は大いなる真言である」と言います。

真言は、言霊のようなもので、言葉自体にパワーが宿るものです。
それを唱えたり書いたりすることに意味があり、言葉の意味は必要ありません。

般若心経の最後に、以下の真言があります。

羯諦羯諦(ギャーテーギャーテー)
波羅羯諦(ハーラーギャーテー)
波羅僧羯諦(ハラソーギャーテー)
菩提娑婆訶(ボージーソワカ)

般若心経

これはサンスクリット語で「行った者よ、行った者よ、彼岸に行った者よ、向かい岸へと完全に行った者よ、悟りよ、幸いあれ」という言葉です。

この真言を唱えて般若心経は終わります。

ワーパパと般若心経

本来、「空」はそんなに簡単な理解で済ませられるものではなさそうです。
私も実はさっぱりわかりません。

「空」は「空」なのだと思いますが、補助線がないと理解に近づけないと思ったので私の認識を言語化してみました。

般若心経の真言は「コナミコマンド」のようなものだと思いました。
「上上下下左右左右BA」です。
意味に意味はなく、実行することで何かが起こる。

あるいは「バイナリファイル」とも言えます。
実行することで何かしらがメモリに展開されて効果を発揮する。
しかし外からみた時には、それはただのビット配列でしかない。

このようなことは、科学の教育を受けてきた私達にとっては理解し難いものではあります。
しかしながら、知識だけでは理解できない、何かしらの身体性を持ってしか理解できないものはあるように思えます。

こういった理解し難いものでも受け入れるということは、これからのダイバーシティやインクルージョンといった時代において重要なのかもしれません。

子供が算数・数学を学んでいるのを見て、新たな概念を獲得している様子を見て、人間の可能性を強く感じます。
大人も、勉強をすれば新たな概念を獲得できることが出来ます。

新たな概念を獲得し、智慧を完成させ、自分へのバイアスを外すことは、学び続けることで可能になると思います。

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