オーケストラ、給与体系の歴史
大学を卒業してから、お仕事で「首席奏者」を弾かせていただく機会が徐々に増えてきた。「首席」で弾くと「首席手当」がもらえる。すなわち、他の人よりもギャラが少し高い。確かに管楽器の首席奏者たちはソロが多く、弦楽器の首席奏者はボウイングを決めなければならず、或いは音楽のイニシアティブを取るために曲をより理解しなくてはいけないから、他の奏者よりも準備に時間がかかる。とはいえ、例えば同じ「1番オーボエ」でも、まるで協奏曲のようなソロがある楽曲もあれば、ひとつもソロがない楽曲もある。そして曲によっては、管楽器の「2番奏者」にソロがある曲もある。よくよく考えてみると、管楽器の「1番奏者」と「2番奏者」の重みのバランスは、作曲家によってだいぶ異なる。それは現代のオーケストラの給与体系のように統一されたものではない。
もしかすると、時代や地域によってオーケストラ奏者の給与がまったく異なる体系だったのではないか。あるいは、給与体系が音楽の編成における構造を作ることもあったのではないか。そんな仮説を思い浮かべた。
1. 宮廷の時代(17〜18世紀)
バッハやモーツァルトの時代、オーケストラは宮廷のものだった。宮廷の総予算のなかで宮廷楽団(オーケストラ)が使える額は決まっており、そこから人件費、楽器や楽譜、文房具の購入費などを捻出しなくてはいけない。予算は限られているから、給与の高い優れた楽師を多く揃えてオーケストラを作ることは難しい。その結果、多くの宮廷で「少数の優れた楽師を高給で雇い、残りの予算で平均的な楽師を揃える」という方針が取られた。
我々に馴染み深い19世紀のオーケストラ音楽において「ソロ」といえば「協奏曲」が代表的で、そこでは大抵ひとりのソリスト(ゲスト)がフルオーケストラの前で技巧や音楽を披露する。しかし、バロック音楽における「ソロ」は、オーケストラの奏者たちが担当する。その代表例である「コンチェルト・グロッソ(合奏協奏曲)」は、それぞれのパートにソロ奏者とリピエーノ奏者がいて、ソロ奏者はオーケストラのなかでアンサンブルをしながら、時折ソロも担当する。これは合奏協奏曲に限らない。例えば有名なJ.S.バッハの《マタイ受難曲》では、ヴァイオリンやオーボエ、フルート、ガンバ、歌など、さまざまなパートからソリストが登場する。
よく考えてみると、この音楽のスタイルは、前述の給与体系と構造的に一致している。
(アルカンジェロ・コレッリ(1653-1713)の《コンチェルト・グロッソニ長調 Op.6-1》)
当然、こうなると演奏家の中に「貧富の差」が生まれる。
まずは低賃金クラスから見てみよう。このクラスに属するのは、主にトランペット奏者やオーボエ奏者の一部である。彼らの給与は現金だけでなく「現物支給」のことも多かったようだ。この現物支給は、見ていくと面白い。
1718年のカールスルーエの宮廷におけるオーボエ奏者の給与(年収と現物支給)について、表にしてみた。
現物支給は合計で56グルデン相当だから、給与の半分近くが現物支給ということが分かる。ちなみに年間1キロリットルのワインというのは、365日で割れば、一日あたりおよそ2.7リットルである。家族が大勢いるのかもしれないが、それにしても700ml瓶が毎日4本程度と思うと、ものすごい量だ。
話が逸れてしまった。18世紀の平均的な給与はおよそ200から400グルデンだったそうだ。レオポルト・モーツァルトが1777年に妻子に当てた手紙のなかには「ザルツブルクの給料は、侯が厚遇している人を除いて、300-400グルデンにしかならない」と書いてある。
楽師長になると小さな宮廷では400から500グルデンほど、大きな宮廷では1000グルデンを得る者もいた。音楽を偏愛したベルリンのフリードリヒ大王の宮廷では、(1741年時点で)楽長のカール・ハインリヒ・グラウン(作曲家、声楽家)と、大王のフルート教師で特別待遇だったクヴァンツが年収2000ターラーであり、これは1000グルデンを超える金額である。ちなみにこのとき最低所得者だったのはチェンバロ奏者であったカール・フィリップ・エマヌエル・バッハで、300ターラーだったそうだ。
高給取りと言えば、ヴァイオリン奏者として当時有名だったカール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフは、1765年25歳でグロースヴァルダインの楽長となるが、侯爵司教から言われたのが「1200グルデンの年給、食事、宿舎付き、さらに召使いの給与と食事、制服付き」という破格の条件だった。ただしこれは給与明細などではなく『自叙伝』の記述に過ぎず、この資料を読んでいると良いことばかり書いてあるから、話を「盛っている」可能性もあるかもしれない。
給与の額がさまざまだったということが分かった。同じ宮廷の中での傾斜も大きいが、宮廷による違いも大きい。宮廷がオーケストラにどの程度の予算を割くかは、宮廷の財政状況、そして宮廷がどのくらい音楽を大事にしているかによってまったく変わってくる。同じ宮廷のオーケストラでも、王が音楽好きからそうでない人に変われば、当然楽師たちの給与も変わるというわけだ。
さて、いわゆる「バロック時代」において(場合によっては19世紀の初めごろまで)給与の支払いはそれぞれの奏者と宮廷の「個別契約」が主だったが、18世紀の末頃から合理的な基準に基づいた統一的な給与体系が模索されるようになった。
その先駆的な例を見てみよう。ミュンヘンの宮廷オーケストラでは給与体系が、1755年に「規定」され、その文書が残っている。これをまとめてみた。
【楽師長】3人
【ヴァイオリン】12人 全体で4000グルデンを超えないように
【ヴィオラ】4人 一人当たり190グルデン
【チェロ】4人 うち1人は925グルデンで、その他の3人は一人当たり285グルデン
【コントラバス】3人 ひとり当たり285グルデン
【ファゴット】2人 ひとり当たり190グルデン
【オーボエ】2人 ひとり当たり475グルデン
【ホルン 2人】1人は380グルデン、もう1人は228グルデン
わたしが注目するのは、ホルンを除いた管楽器奏者の給与がそれぞれ同額であることだ。確かにこの頃の作品は、1番奏者のソロが多い19世紀ロマン派の音楽よりも、1番奏者と2番奏者の重みが対等である作品が多いように思える。(ちなみにこの頃のホルンは現代の楽器のようにバルブが付いておらず、唇の形とベルの中に差した右手の拳の形だけで音程を変えねばならず、とても難しい楽器だった)
(カール・シュターミッツ(1745-1801)のシンフォニアより)
2. 19世紀のウィーンフィル
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は、自治委員会を持つ民主制と共に1842年に誕生した。最初期の委員会メンバーはオーケストラ監督(コンサート・マスター)と5人の首席奏者(フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン)で成っていて、彼らは他の出演者より高い収入を得ていた。1844年の第6回コンサートの「収入分配割当表」をここに載せる。
【指揮者】
78グルデン 40クロイツァー
【オーケストラ監督(コンサート・マスター)】
39グルデン 20クロイツァー
【委員会メンバー(7人)】ひとり当たり
24グルデン35クロイツァー
【その他の出演者(56人) 】ひとり当たり
19グルデン 40クロイツァー
(上記のギャラが支払われた1844年3月10日の第6回コンサートでは、モーツァルトの《交響曲第41番》、ヘンデルの《アチスとガラテ》からレチタティーボとアリア、そしてベートーヴェンの《交響曲第6番》が演奏された。)
1862年には、委員会が「フィルハーモニー・コンサート企画の職務規定」を作成。それによると、普段のコンサートでは1シリーズの終わりごとに支払いが行われたが、1回ずつのコンサートではそのたびに支払われた。その額は当日の収入から来る純益を「指揮者に3、コンサート・マスターに2、他のメンバーに1」の割合で分配され、奏者には同額のギャラが支払われたようだ。
3. ワーグナーの『ザクセン王国ドイツ国民劇場機構計画』
リヒャルト・ワーグナーは1849年に『ザクセン王国ドイツ国民劇場機構計画』のなかで、オーケストラのより良い給与体系の提案をしている。残っている文をもとに、大雑把にまとめると、次のようになった。
楽長 2000
音楽監督 1200
事務長 1000
コンサート・マスター 1500
コンサート・マスター代理 1000
ヴァイオリン 600(2名)、500(1名)、300-450(17名)
ヴィオラ 600(1名)、500(1名)、300-450(4名)
チェロ 600(1名)、500(1名)、300-450(4名)
コントラバス 600(1名)、500(1名)、300-450(2-3名)
フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット それぞれ600(1名)、500(1名)、300-450(1名)
ホルン 600(1名)、500(1名)、300-450(2名)
トランペット 500(1名)、300-450(2名)
トロンボーン 300-450(3名)
ハープ 300(1名)
オルガン 600(1名)、400(1名)
ほか300-450が3-4名(テューバ、打楽器など?)
(年給。単位はターラー。)
楽器の種別に関わらず、勤務年数に応じて誰もが300から450ターラーまでは昇給できるようだ。これは現代のオーケストラの給与体系にとても近いと思う。
(ワーグナーが1850年に作曲した楽劇《ローエングリン》より前奏曲)
4. 現代のオーケストラ
フリーランスのコントラバス奏者として生計を立てているわたしは、もちろん日本のオーケストラの給与事情をある程度知っているが、それをここに記すことは不適切だと思うので、公にアクセスできる情報から得られるアメリカのオーケストラの給与について書く。
2003年の情報によれば、アメリカの50あるオーケストラの予算において、演奏者への報酬は全体の約43%を占める。その中には階級的な構造があり、首席奏者は他の奏者の最低賃金のおよそ2倍から4倍の給料を手にしている。
ニューヨーク・フィルハーモニックが2003年の一年間に支払った給与を下記にまとめてみた。
コンサート・マスター(グレン・ディクテロウ) 36万3000ドル
首席ヴィオラ奏者(シンシア・フェルプス) 21万6000ドル
首席チェロ奏者(カーター・ブレイ) 25万5000ドル
首席ホルン奏者(フィリップ・マイヤース) 22万7000ドル
首席トランペット奏者(フィリップ・スミス) 24万3000ドル
一般奏者基本給 10万3000ドル
宮廷時代には最低賃金クラスに属し、ワーグナーの時代にも他の管楽器より給料が低かったトランペット奏者の給料が、他の首席奏者よりも少し高いことが見てとれる。また、コンサートマスターの給料が、19世紀より幾分高い割合になっている。
(ニューヨークフィルの演奏会で、《英雄の生涯》のソロを演奏するコンサートマスターのグレン・ディクティロウ)
同じオーケストラの中で奏者によって給料に傾斜があるということだけでなく、オーケストラによって給与が異なるということも宮廷の時代と同じである。
ニューヨーク・フィルはビッグ・ファイブと呼ばれ、150年以上の歴史を持つ大オーケストラだ。給料も非常に高い。一方で、オーケストラの規模が小さくなると、オーケストラの最低賃金は低くなる。ボルティモア交響楽団は7万3000ドル、ミルウォーキー交響楽団は5万6000ドル、ナッシュヴィル交響楽団は3万5000ドル、シャーロット交響楽団は2万7000ドルだ。
また現代は、一般奏者に対して指揮者の給料がとても高い。先の2003年のアメリカの調査によると、少なくとも7つの団体が音楽監督(人事権なども持つ首席指揮者)に100万ドル以上の報酬を支払っており、そのうち2つの団体は200万ドルを超える報酬を支払っている。19世紀のウィーンフィルにおける3~4倍、ワーグナーの時代における5倍という数字とは比べものにならない、20倍ほどの報酬になる。また、指揮者は一般奏者に比べて給料が高いだけでなく、出勤日数も三分の一程度と少ない。オーケストラの奏者たちにとって指揮者という職業があんなにも嫌われる理由が見えてきたかもしれない。
5. 終わりに
給与と音楽の関係性について、安易に繋げて考えることは危険だろう。宮廷の時代の音楽は、そのほとんどが「機会音楽」である。すなわち、冠婚葬祭や晩餐会などの行事のために、目的があって作られることが多かった。一方で「芸術のための芸術」という言葉が叫ばれた19世紀には、音楽は目的のためだけでなく、音楽それ自体のためにも創作された。そういった事情を考えれば、必ずしも給料と楽譜が密接に結びついているとは言い切れない。
しかし、時代や地域によって、楽器やパートの扱いが楽器の事情(楽器が改変されていった歴史)を抜きに変わっていったことと、給料の体系の変遷に、関連性を見出すことは可能だろう。「ピリオド演奏」という概念を使うならば、もしかすると演奏会のプログラムによって、演奏家たちの給料に傾斜をつけるべきかもしれない。
それはもちろん冗談だが、こういった歴史を踏まえた上で、演奏者が他の演奏奏者に対して敬意を払うことは、推進されるべきだろう。あるいは、歴史上の名もなきオーケストラ奏者たちに、敬意を示したいと思う。
(この文章では「給料」と「給与」という言葉が混在しています。これは、当時の報酬の支払いが必ずしも日本語の「給料」「給与」という言葉と一致しないためであり、明確な使い分けはしておりません。ご了承ください)
[参考文献]
Chr.-H.マーリンク『オーケストラの社会史』1971年。大崎滋生訳、1990年、音楽之友社。
大崎滋生『文化としてのシンフォニーⅠ』2005年、平凡社。
クレメンス・ヘルスベルク『王たちの民主制 ウィーン・フィルハーモニー創立150年史』1994年。芹沢ユリア訳、文化書房博文社。
ブレア・ティンドール『モーツァルト・イン・ザ・ジャングル セックス、ドラッグ、クラシック』下巻、2016年、柴田さとみ訳、ヤマハミュージックメディア。
Richard Wagner “Gesammelte Schriften und Dichtungen”1887より第2巻
Karl Ditters von Dittersdorf “Lebensbeschreiburg, seinem Sohne in die Feder diktiert”1801
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