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「メタモルフォーゼの縁側」を観てオタクの人生を考えたよ

映画「メタモルフォーゼの縁側」、6月に公開されて観ようと思ってたのにいつの間にか7月になってて、16:50の回に16:30ジャスト退勤で無理やり間に合わせました。先週の火曜日。
いつも映画は安さを求めて水曜日に観るんですけど水曜の仕事が外出だったのでシネマイレージ会員デビューしたりして。それはどうでもよくて。

原作も何も知らず、私は芦田愛菜さんのファンなので芦田愛菜さんが拝めればいいや内容も面白そうだしという感じで、すっごく面白くてワナワナしながら観ました。最高だった。
どれくらい最高だったかというと、前提として私はひとりでいたくなんか全然ないのにひとり暮らしをしていることに絶望して希死念慮とだけ仲良くしているんですが、その日は帰る家に誰もいないことが本当に嬉しかった!!
たっぷりフィクションを摂取して、めちゃくちゃ楽しくて充実した気持ちになったあとに誰かとコミュニケーション取らなきゃいけないの嫌すぎる〜、ていうか全然自分と関係ないことで水を刺されたら勿体なさすぎる〜という感情。ひとりでいることのメリットって自分の感情を外的要因で乱される可能性がかなり減ることなんだなと実感しましたね。
まあ自分の意思以外が存在せず日々刺激がないというデメリットの顔の方が優勢ではありますが。

どこが面白かったとか解説する気が全然なくてこれはただの日記。わかんないけど別に普遍的なものではなくて、私にとって最高に面白いと思えるフィクションであったということが大きい。好きだったのは登場人物が全員善性なのにあらゆることはどちらかといえば大抵うまくいかない感じとか、縁側に日差したっぷりなきらきらした画面とか、あと主演2人がカバーする『これさえあれば』とかかな。
あ、見どころは芦田愛菜さん演じるオタクJKの絶妙なオタクっぷりです。芦田愛菜さんが最高にオタクな台詞を吐いてる場面とか嬉しすぎてキャッキャしてしまいました。あとリアルJKの芦田愛菜さんが観られるのは今だけ!

以下やや感情のネタバレかもなのでお気をつけてって感じですが、まあだいたいあらすじから分かる通りオタクなんで好きなもののこと好きでそれが分かち合えて幸せってのがまず描かれるんですね。情熱を注げる先があることの喜び、それこそ主題歌になっている『これさえあれば』感情。

三度の飯より夢中さ
やっとのことで手に入れたのさ
これがなけりゃ世は虚ろ
そうさ誰にも邪魔はさせないのさ
これさえあれば/T字路s

ただの趣味という枠を超えて、オタクであることが誇りになってくるという感覚。最近は推し活とかで自分がどれだけ対象に狂っているかを誇示する仕草をするのが結構主流ですけど、まあSNSなんて究極全部自慢なんで時代的に仕方ないと思います。作中の2人はそういう狂いの人から見たらもしかして「生ぬるい」のかなーとか思ったりもしながら観てました。

問題はここからで、作中で描かれてた感情の中で私に1番刺さった部分の話なんですけど、誇示するなんて滅相もなくひっそりBLを楽しんでいる隠キャオタクJK(芦田愛菜)に降りかかる、なにもかも(※容姿/クラスでの立ち位置/彼氏/将来の夢など)を持っている陽キャが「私BL好きなんだよね〜」とかあろうことか教室で言いはじめた瞬間の絶望!!!これです。

生きてる意味ようわからんくて結構しんどくてそれでも自分にはこれがあるから、って小さく自分を慰めるために握りしめていた唯一の宝石を、自分から見て当たり前に生きている意味のあるような、他の宝石にもキラキラまみれている人が本当にさりげなくアクセサリーとして着こなしていたら。
別に自分の宝石が輝かなくなったわけでもないのに、最悪な気持ちになりますよねーっていう。嫉妬とかマウントとかそういうことじゃなくて、人生の格の違いをまざまざと見せつけられるやつ。ほんとにしんどい。しんどいねーとなって、素晴らしかったわけです。

私は結構一生この感情に殺されていて、例えば「メタモルフォーゼの縁側」を映画館で観ることができて幸せいっぱいな気持ちで帰って、ああ私には最高のフィクションさえあればいいのかも!他には何もいらないかも!とかしばらく思うけど、普通に知り合いでフィクションをめちゃくちゃ楽しみつつ仕事も充実させていてお金もそれなりに貰いつつ当然彼氏もいてアウトプットするタイプの趣味もしっかりやっているみたいな人見るとはぁ死のうかなってなるじゃないですか普通に。ていうかいるし。

常に意識してしまう埋まらない部分が自分にある以上、どんなにそれ以外のことが素晴らしく評価されたりしたとて、その穴にひとつきで絶望できる。これは人間のシステムで、だからみんな「普通」を目指すんだと、突かれる穴がないことを幸せとか平穏とか呼ぶんだと思いました。(感想)
私が1番酷いのだと、例えばメガネをかけていて容姿の面で私と並んだときにどちらが特別可愛いとかそんなに差がないかな〜みたいな女性で、本が好きで、自分でも小説を書いたりするような人で、休日の過ごし方とかなんとなく似ていてシンパシーを感じていた知り合いに彼氏がいるとわかった瞬間にめちゃくちゃ自殺願望が高まりますね。実際それで絶対餓死しようと思って3週間人前以外でご飯を食べないで激ヤセしたこともありましたし。

それでも死ねなければ生きるしかないし、好きなもののことは好きだし、ていうか好きなものめっちゃ元気くれるし、はーまじ好き、最高、これさえあれば!(以下ループ)みたいな感じですよね一部オタクの人生。違います?

あとはですね、好きを分かち合うという方法で繋がるふたりという題材そのものが美しかった。縁側に座るふたり、カレーの味、笑顔、ああコミュニケーションって素晴らしい……と純粋に思える。なんか今、恋愛とか特別とかいう感じやられるとちょっと受け付けない身体になってるんで、人間が2人以上出てくるフィクションで互いに意思疎通ができていて、心地よく観られたから刺さったんだと思う。

冒頭で申し上げたとおり私はひとりで生きてても意味ねーと思うし、なのに誰とも一緒に生きていないのでかなりアレなんですが、そもそも「人と一緒に」がうまくできたことが人生で一回もない気がするんですよね。まじで。
人のことかなり好きなので集団に入りたがる(高校で部活4つ、大学でサークル3つ入ってた)くせに、なんかこう、誰かと一緒に頑張った!的な、切磋琢磨してとかあなたがいなかったら無理だったーみたいなそういう経験、ない……。リーダーとして集団を仕切るのは得意だけどリーダーってひとりだし。受験とかも塾の先生にも親にも勉強の面で頼りはしたけど最終的に一緒の気持ちで、支え合って!とかなかったし、人生のさまざまな選択において他人を巻き込まずにひとりでささっとやってしまうタイプで、本当に損してる。会社でも放置されてるし。

(注釈いれます別にひとりで自分の力で生きてきたとかそんなつもりないしたくさん助けをいただいているんですけど大まかな気持ちの問題なので大目に見てください)

会社で放置されてるのがめっちゃ嫌で原因を考えてたら傲慢な結論に辿り着いて、ほっといても勝手にやっちゃう/できちゃうからだろうなって。人と関係値を作るためになんでも相談したり弱みを見せたりしなきゃいけないのって何?!と思ってたんですけど狙って見せるものじゃなくてある程度必要だからやってるんですよねみんな。問題児は構ってもらえる。そつなくこなしちゃうのって人間関係構築の面から見れば当たり前に損です。失敗です。

でも私、人と一緒に「楽しむ」のは全然得意なんですよ。人と喋るだけでなんでも楽しいと思うし、自分が相手を楽しませようとすること(からまわるときもあるけど)は好きだし。でもなんか世間だと、一緒に楽しい時間過ごすだけって関係値の価値低くないすか?楽しいのに。
私が「人と一緒」が苦手って思ってしまうくらいには人間同士の深い関係はそうじゃないってなんとなく刷り込まれている、気がする。
もちろんそこに「長い年月」が加わったり、外側から見ていても楽しいような複数人のグループになると簡単に尊い〜って感じになったりしますが、あくまで一対一で楽しくお話ができる関係ってまだあんまり描かれてなかったような気がしてやっと映画の話に戻ってきましたね。

「メタモルフォーゼの縁側」は老婦人とJKという年齢差にキャッチーさがあることによってフィクショナブルな友だちの話ですが、その年齢差が殊に強調されたりしないのもうれしかった。楽しく過ごす友だち同士を、ほんのり運命で結ばれたBLというフィクションに重ねて俯瞰してみたりしつつ、それが特別周りから賞賛されることもなくただ楽しく友だちであったことが、この作品の私にとってよかったことだなあと思いました。

ひとり暮らしは嫌だしたぶん生理前だから会社でも孤独で死にたくなっちゃったけど。土日は友だちと会えるから楽しみ。大好きなフィクションをいっぱい飲み込んで、ひとりでも大丈夫になってから寝ようと思います。じゃあね。

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