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小説「センチメンタル・シンドローム」(短編集「さよならをポケットに」第1編)

「夜遅くに電話しちゃってごめんなさい」
「ぜんぜん大丈夫だよ、どうした?」
「あの、私・・・」

4か月か、長続きしないものだな。青年は自分に降りかかるささやかな死を感じ取り、一瞬のうちに夢想した。


「お別れしたくて」


なんだか知っていたみたいだ。大学の掲示板に張り出されていたっけ。


「そっか。わかった。今までありがとうね」
「こちらこそ、ありがとうございました。それじゃあ」
彼女は、老衰する家族に覚悟を持ったさよならを言うみたいに、言った。

長針が2周する間、青年はずっとそれを眺めていた。なにも主張せず、バカみたいに黙々と、針は回り続ける。

青年は幸福を注射されたみたいに、じっとしているのが耐えられなくなって、とりあえず嗚咽の声をあげてみた。

そう、こんな感じ。全身から笑みがこぼれる。

次は息を限界まで、肺に1滴たりとも空気を残さず吐ききって、ちょっとだけ吸う。繰り返すうちにたまらない何かが体内で膨らんでいくのを感じた。

そして何かは膨張を続け、ぱん、と弾けると同時に青年は倒れた。


翌日、青年は自分の財布にたんまりと貯まった24時間の使い方に悩んでいた。

今まで人生の7分の1だか8分の1だかを費やした女性がいなくなってしまったのだ。しかし、今の青年にはあまりにも大きすぎる時間、使い道がわからない。とりあえず青年は眠ることにした。


眠って、眠って。いい加減眠るのも飽きてきた。青年は街の真ん中にある無機質な文房具屋に行き、真っ白な便箋と真っ白な封筒、高級なボールペン、それに新鮮な角を有した消しゴムを1つ買った。


拝啓―私様
 今日のあなたはいかがお過ごしでしょうか。たしかあの日は雨が降っていて、読み残した小説を読む予定でしたね。

 それで物語が終盤に差し迫ったころ、あなたの彼女さんから、その日の夜に電話がしたいって連絡がくるんです。そこであなたはちょこっとだけ死んでしまいます。かなしいですね。

 だからこれから1日1通、私はあなたに手紙を送ります。明日は昨日のあなたに、あさってはおとといのあなたに手紙を送ります。いきなりのお手紙でちょっとびっくりしたかもしれませんが、どうかよろしくお願いします。
 敬具


青年は毎晩10時になると机に座り、手紙を綴った。


拝啓―私様
 今日はお月見の日ですね。あなたは彼女さんのおうちに行って二人で月見団子を作る予定でしたよね。でも、あなたは団子粉なんて知らなくて、小麦粉を持っていくんです。それでも彼女さんは全然怒らなくて、むしろ笑ってくれて。代わりに月見クッキーを焼くことになるんです。

楽しみにしていてください、月見クッキーはとってもおいしいですよ。そしてその味を今の僕にも届くよう、しっかりと味わってください。

 今の僕の頭の中には「おいしかった」という言葉だけが並んで、味も彼女さんの表情も思い出せません。頼みましたよ。よろしくお願いします。
 敬具


拝啓―私様
 今日は待ち望んだ初デートの日ですね。目的地は隣の県の古い図書館。昔どこかのお金持ちが建てたその図書館は壁すべてが本棚になっていて、それはもう本当に美しいんです。

 館長さんの話だと7月は観光客で賑わうはずなのに、なぜかその日はあなたたちしかいません。だからチャンスです。必ず手を繋いでください。

 あなたは今まで恥ずかしがり屋という性格を盾に色んなものから逃げ続けてきました。その結果が今の僕です。だからどうか、手を繋いでください。

 そうすれば、もしかすれば、あなたの命日は幾分か伸びるかもしれません。人間は目の前にあるものは手を伸ばせばひょいと掴めるのに、後ろのものとなると背中を掻くのにも苦労します。

僕の記憶は、日に焼けた文庫本の表紙のようにぼやけてしまっています。

あなたは彼女さんのことが好きですか。答えは忘れてしまいました。僕の記憶には、僕の命日しかありません。
 敬具


124通目。青年は最後の手紙を書き始める。


拝啓―私様
これは私があなたに向けて書く最後のお手紙になります。

 気分はどうですか。これからあなたは自分の身体が少しずつ溶けていくような、そんな時間を過ごします。でもそんな時間に大した価値はありません。人生の妙味はそんなところをかじっても溢れてはこないのです。

 だからあなたは安心して彼女さんに想いを注ぎ込んでください。それは人生において最も人間味溢れる極上の時間への下準備になるのです。それでは、僕はそんな甘美な時間をもう一度手に入れるため、明日から生きます。4か月の間お付き合い頂きありがとうございました。
   敬具


 翌日、青年は図書館にあるファッション誌を片端から読みふけった。さらに2日後、青年は街1番の美容室に向かい、帰りにベージュのテーラージャケット、白のロングTシャツに黒い布製のチノパンを購入した。髪質にあったワックスと、オーデコロンも忘れずに。

準備は万全だ。青年の頭の中には、思い描く最高の時間が流れていた。


 青年に新しい彼女ができたのは4月、桜の息吹がそよ風となって日本を包み始めた日だった。

青年は彼女に100パーセントを捧げた。彼女はそれを、受け止めて、受け止めて、潰れた。


5月、満開の桜並木は冷ややかな満月と二人を眺めている。一人の女性は繋いでいた手を振り払い目に涙を浮かべ、男はせわしなくまばたきをしている。口元はほろこんでいた。


「ごめんなさい、ごめんなさい」
「どうしたの?急に」
「別れましょ。もう我慢できない」


青年は体内を流れる血液が熱を失っていくのを感じた。深く呼吸ができない。たまらなく心地がよかった。そうだ、この時だ、この瞬間を待ち望んでいた、はず、なのに。
青年は力のない表情でぼんやりと空を眺めた。

夜桜に満月、絶景だった。

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